母から感じた「チャレンジをあきらめない」ということ ~自転車・鹿沼由理恵選手

自転車 2020年12月21日
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2016年9月 リオデジャネイロパラリンピックにて。『タンデム』という二人乗りの自転車でレースに挑む、鹿沼選手(右)と田中まい選手(左)

リオパラリンピックの自転車競技、視覚障害クラス「女子タンデムロードタイムトライアル」で銀メダルを獲得した鹿沼由理恵選手(39)。
リオ大会後はトライアスロン競技に転向し、東京パラリンピックを目指していましたが、以前から苦しんでいた両腕の神経まひが悪化し、左腕の切断を余儀なくされます。また同じころ、最愛のお母さんを亡くすという悲しみも経験しました。
しかし、鹿沼選手はその後もトップアスリートとしての道を追い求めています。トライアスロンから、視覚障害者マラソンを経て、今は再び自転車への競技復帰を目指し、トレーニングに励んでいます。
どのような状況を経ても「チャレンジをあきらめない」鹿沼選手。その思いを伺いました。(聞き手:遠田恵子ディレクター


視覚障害の選手が、自転車競技で乗る「タンデム」とは…
視覚障害のある選手は一人でハンドルをもって自転車をこぐのが難しいため、前に同性の健常者選手が乗ってハンドル操作をし、二人で一つの自転車をこぎます。
前の選手のサドルの下には、視覚障害の選手のハンドルがあり、二人それぞれにペダルをこいで2輪を動かします。二人で息を合わせること、持久力と二人の息が勝負のカギとなります。2016年のリオ大会にて、鹿沼選手はケイリンの田中まい選手とペアを組みました。



■できるようになるにはどうしたらよいのだろう?

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銀メダルを手にする鹿沼選手(右)と田中選手(左)

鹿沼選手がリオ大会で銀メダルを取ったこの種目。実は、競技スタート直前にトラブルがありました。

「スタート直前はギアを軽めにして、徐々にスピードに乗ってからギアを上げる作戦でしたが、スタート1分前にギアが動かないことに気づき、一番重いギアのままスタートするしかありませんでした。
一人だと焦るけれど、タンデムの強みでしょうか?お互いが『やるしかない』という気持ちに。二人だから行けました」

そして、速さを競う「タイムトライアル」で、2位となります。

「ずっと重いギアでこいでいたので勝てると思わず、ゴールした直後は、ただ疲れて二人で座り込んでいました。(取材陣がいる)ミックスゾーンに引き上げたときに、メディアの方々が『おめでとう』と声をかけてくれましたが、最初は信じていませんでした(笑)。
正式に銀メダルとわかったときには、本当にうれしくて、田中選手と抱き合いました」

写真:クロスカントリースキー、雪原を直滑降で滑る鹿沼選手

2010年3月 バンクーバーパラリンピックにて

鹿沼選手は、25歳の時から“スキーのマラソン”といわれるクロスカントリースキー競技を始め、2010年のバンクーバーパラリンピックでは5位入賞を果たしますが、自転車競技に転向します。

「バンクーバーの後、2014年ソチ大会でメダル獲得を目指して練習していたのですが、2012年に転倒し、左肩のじん帯を切ってしまったんです。クロカンは、両手でストックを強く押して、両脚で板をすべらせるのですが、ストックを強く押せないと、ほかの選手よりも早く走るのが難しい。私自身、メダルしか頭になく、表彰台に上がらなければソチに出ても意味がないと思ったので、スキーは辞めようと考えました。
そのことを、同じく視覚障害クラスでクロカンをやっている、カナダのロビ選手にメールをしました。彼女は自転車競技をやっているので『タンデムやってみたら?』と言ってくれて。私自身も、タンデムならメダルを目指せるかもと思い、転向しました」

※ロビ・ウェルドン選手:2010年の地元カナダのバンクーバーパラリンピックから競技に参加した、視覚障害クラスの選手。2012年ロンドンパラリンピック自転車競技ロードタイムトライアル(女子)で金メダルを獲得


そして競技転向を決めた鹿沼選手。自転車とスキーで共通する部分をこう感じました。

「持久力、パワー、何よりも“体を動かす”というのが自分にとっての共通点ですね。風を切って走れるという爽快感もありました」


2012年に自転車に転向。2015年の世界選手権では2位などの活躍をしますが、2016年リオ大会前には両腕の痛みに苦しみます。

「リオが始まる半年前くらいですが、腕が徐々に感覚がなくなり、指なども動かしにくくなる末梢神経まひが起こり始めました。でも、ここで諦めてしまったらすべてが終わりになるし、一緒に頑張ってきてくれた田中選手にも申し訳ない。自分のためにメダルもほしいし、みんなにもメダルを見せたいという気持ちがあったので、そのまま続けました。
自転車のハンドルがうまく握れないときはトレーナーにテーピングで固定してもらったり、自転車に乗りながら給水をするときは工夫して飲めるようにしてもらったりしました。本当に周りの方がいたから続けられました」


大会後の2018年には、腕の切断に至ります。

「動かなくなった筋肉を動かすために別の筋肉を移行させる中で手術箇所が感染を起こし、骨に転移して壊死状態になったので切断という形になりました。
残す範囲がほしかったので、何度かぎりぎりのところを切ってもらいましたが、壊死がちょっとでも残るとその先も壊死になってしまい、三度手術を行いました」

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左腕の袖を絞り、ハンドルにくくりつけてタンデムに乗る鹿沼選手


パラアスリートとして様々な“障害”を見ていた鹿沼選手には、腕の切断について独自の価値観がありました。

「私は、パラリンピックや障害者スポーツで切断している選手と一緒にいて、“切断しても生活できる”生々しい事実を見ていたので(笑)、いきなり切断というほかの方よりはイメージできていたと思うんです。
お医者さんからは『切断するのも一つ。切断せずに機能を失った腕を残しておくのも一つです』と選択肢を言われました。見た目としては腕があることの方がいいと思うんですけど、私自身治療をしている中で、動けない・何もできないという状況よりは、またスポーツや社会に復帰したい、腕を切断して次の道へ進められたらと思い、切断を選びました」

「最初のころは、両手で今までやっていたことをパッと出しても片方がないので(笑)、違和感はありました。
茶碗を洗うときは、切断の腕に髪の毛のゴムでスポンジを固定して洗ったり、日常生活で字の読み書き用に左手で使っていたルーペが持てなくなったので、ルーペを左腕に固定をしたりして字を書くようになりました。

ひとつの機能、それはちっちゃなことであれ、けがや切断をするとできないことが増えますが、『できないからやらない』ではなくて『できるようになるにはどうしたらよいんだろう?』と考えたらいろんなことが徐々にできるようになりました。
例えば、今まで足の指を使うのが苦手だったんですけど、足でふたや引き出しを開けられるように。人間はいくつになっても、使おうと思えば可能性はあるんじゃないかって、感じましたね」


東京パラリンピックを目指している中での、腕の切断。出場は一度断念することに。

「正直、諦めることは悲しいですが、入院中、スポーツ番組などで改めて選手のお話を聞くと、トレーナーやスタッフ以外にもいろんな人が選手を支えている…と感じました。
私自身、リオでいろんな方に支えてもらい、何よりもいろんな方に応援してもらいました。今度は、一人でも多くの方が、東京パラリンピックでベストパフォーマンスができるように応援して、支えられたらという気持ちに切り替りました。
パラリンピック自体は東京が最後ではないので、そこが自分の出発点であるようにつなげていきたいです」



■どんと構えてくれた母から感じたこと

写真:ほほえむ鹿沼選手


腕の切断を経験したのち、最愛のお母さんを亡くします。

「母は、ああしちゃいけないこうしちゃいけない、それ危ないとか一切言わない人でした。けがしても何しても『それは自分の責任で、あんたがやったことでしょ』って」

鹿沼選手の、競技転向やけが、闘病から腕の切断を決断したことなど、お母さんはすべてを受け止めてくれました。

「母としては、自分が生んだ子の体の一部がなくなることはショックだったと思うんですけど、それで生きていけるのであれば大丈夫だろうと。
内心、動揺を隠していたと思いますが、母なりにどんと構えてくれていました。何があっても、試合の遠征から帰ってきてどんな成績でも、私を守ってくれる場所、戻れる場所を作ってくれていた形ですかね。親だからいろいろ考えていたと思うんですけど、親も親の中で消化して、ずっと同じように接してくれていました」

お母さんとのエピソードをこう語ります。

「子どものころは『できないことでも、できるように工夫してできるようにしなさい』と言われました。
あとは2015年、静岡で自転車の練習中にこけて静岡の病院に入院したんです。実家は東京の町田市なんですが、町田から静岡まで毎日片道2時間半、わざわざ通ってくれました。電車の苦手な母が疲れている顔もせず、普通に「近所にきましたよ」みたいな顔で(笑)、毎日。
午後、ただ普通に院内を歩いたり、院内のコンビニに行ったりするだけですけれど、母の愛情、母らしかったですね。
入院した当初は自分自身、こけて頭があまり回っていなかったんですけど、徐々に良くなっていく中で『自分もそこまでしたことないのに、なんでそこまでしてくれるんだろう。これは早く競技に戻って、母のためにも次を目指そう』と思いました」


見えない視野、腕の切断。鹿沼選手は“障害”をこのように考えます。

「正直、視覚障害に関しては生まれたときからなので、他の方との見え方の違いがよくわからないです。今の見え方がノーマルというか、私にとっての正常で。でも、腕の切断は、腕を使っていた後なので“あれができない、これができない、こう違う”というのは、はっきりわかります。

私の場合、弱視なので、今までぱっと見わからなかった障害だったんですけれど、切断して、ぱっと見わかる障害者となったときに、ある意味、障害を隠さずに生活できるようになりました。例えば、皆さんの『視覚障害』のイメージは、白杖をついていたりしますよね?でも、私のような弱視だと、周りの方は『なんで近づいて見ているんだろう?』と思って、障害がわかりにくい。なので、視覚障害ということを隠し、ごまかしつつ生活していたことはありました。
今は切断という、子どもが見てもわかるような形です。なので、(自分の弱視も)『ここが見えにくいです』『こうしたら見えやすくなるんですけどね』など、だんだん隠さずに言えるようになりましたね」



■つながることで、世界が広がる


2019年。鹿沼選手は、地元・東京都町田市で、子どもたちを巻き込んだ応援イベントを実施しました。

「去年、東京オリンピックのマラソンの選考会があり、町田市からは、男女1名ずつの選手が参加しました。子どもたちにも一緒に応援してもらおうと思って、町田市にある小学校42校すべてを周り、応援メッセージを書いたたすきを集めました。

町田市がマラソンに力を入れているので、応援してもらえる伝え方を考えたんです。例えば、マラソンの42.195kmって現実的にわからないですよね。なので、校庭に例えて距離を伝えました。1周200mの校庭の小学校なら『校庭を210周したら42.195kmなんだよ。それを、町田市の選手は2時間10分で走るんだよ』っていうと、子どもたちは『嘘だ!』って(笑)。

やっぱり、子どもたちも知っている選手が出れば、きっと見る目も変わってくると思います」


そして、自身がスポーツを通じて感じた“つながりの魅力”を、子どもたちに伝えたいと思っています。

「体を動かすことが好きな子は、体を動かすことで自分の表現ができたり、ピアノを弾くのが好きな子は、ピアノで自分の表現をしたり。自分が表現できる場、ありのまま自分が頑張ることができる場所があれば、そこからいろんなことがどんどんつながって、日常が楽しくなったり、夢を持てたり、人のつながりができたりする。そこから世界が広がっていくんだよと伝えたいですね。

私は障害者スポーツをやっていく中で、いろんな障害の選手とつながった。リオでメダルを取ったことで、町田市のいろんな方とつながることができたんです。

自転車、タンデムへの夢もあきらめていません。

私自身、競技を続けていることを伝えることで、タンデムという自転車に乗る選手が増えてほしいです。タンデムはまだ、全国で走ることができる場所が限られています。各都道県の道路交通法、関東だと千葉県と群馬県しか走ることができないので、走行可能な県をどんどん増やしたい。タンデムって後ろが視覚障害じゃなければ乗ることができない訳ではなく、親子や、ほかの障害の方と一緒に乗ることもできます。そうしてタンデムが全国的に普及してほしいですね。

タンデムの魅力は “二人でひとつのものを動かす”ことです。一人だとちょっとくじけそうなときでも、二人だとやれることは大きい。二人で一つのものを動かすと、言葉以上につながりを感じます。

タンデムでの国際舞台の復帰に「自分だけではなくてほかの選手と一緒に、日本チームとして戦っていけたらいいですね」と話した鹿沼選手。チャレンジを続けることで、人生の“つながり”がますます広がっていきます。



※この記事は以下の番組から作成しています。
2020年9月20日 「視覚障害ナビ・ラジオ」チャレンジをあきらめない

内容は放送時のものとなります。


【収録を終えて】  遠田恵子

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ラジオ番組収録スタジオでの鹿沼選手(右)と遠田ディレクター(左)

ずっと会いたいと願っていた人でした。初めてテレビで見た鹿沼選手は、全力で力強くペダルをこぎながらも表情はどこか淡々としていて、何とも言えない魅力にあふれていました。この人は、一体どんな思いでゴールをめざしていたのだろう。どんな歩みを重ねてきたのだろう。聞きたいことは山ほどありました。

念願叶ってスタジオにお迎えしたとき、想像していたよりもずっと小柄できゃしゃで、びっくりしました。パラリンピックの銀メダリストで、あの過酷なトライアスロンにも挑戦した人です。さぞかしたくましかろうと勝手に描いていた“屈強なアスリート”のイメージは、ガラガラと崩れ去りました。

マイクの前では、終始穏やか。リオでのレース前、突然のアクシデントに見舞われたこと。病が悪化し、左腕を3度切断せざるを得なかった時のこと。2年前に最愛のお母様を亡くされたことなどを、率直に語ってくださいました。

いくつもの印象的な言葉があります。ひとつは「スポーツはひとりではできない。支えてくれる人がいるからこそのもの」という言葉。たくさんの応援団がいたからこそ今の自分があると、何度も感謝の言葉を重ねました。そして、もうひとつは「腕を切断したことで、生きやすくなった」という言葉。弱視という一見わかりにくい障害については隠すことが多くありましたが、“わかりやすい”障害者になったことで、自分自身について素直に語ることができるようになったといいます。障害のとらえ方が変わったことで、ある種の“覚悟”ができたのかもしれません。

パラリンピックのレースさながらに、いくつもの山坂を全力でこえてきた鹿沼選手。柔らかな語り口からは想像もできない、大変な時間を過ごしてきたことがわかりました。鹿沼選手は、きゃしゃな身体の中に鋼のように強靭な心を収め、いま再び世界の舞台をめざして走り出しています。ただひたすらに前だけを向いて。
私も、応援団のひとりとして精いっぱいのエールを送ります。

鹿沼由理恵選手
1981年5月20日生まれ 東京都町田市出身。
リオパラリンピック 自転車競技「女子タンデムロードタイムトライアル」視覚障害クラスで銀メダルを獲得。
生まれたときから、網脈絡膜(もうみゃくらくまく)欠損症で、左右の視力は0.04。真ん中が見えず周りが見えるような視野で、全体を見るときには目を動かして全体を見る。
現在は、神奈川県のリハビリテーション病院の事務をしながらトレーニングをし、東京パラリンピックを目指す。

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