パラリンピック、かかわる人々~日本身体障がい者水泳連盟 櫻井誠一さん~

競泳 2017年12月8日
パラリンピック、かかわる人々~日本身体障がい者水泳連盟 櫻井誠一さん~

2020東京オリンピック・パラリンピックに向けて、パラリンピック競技の大会や選手への取材が殺到することが多くなっています。日本中が一緒になって「障害者スポーツ」観戦を楽しみ、パラリンピアンの活躍から人間の可能性を感じ、心のバリアフリーが実現することを願ってやみません。

一方で、東京開催決定前から灯を燃やし続けている人たちがたくさんいます。
なぜその人たちは、ずっとかかわっているのでしょうか?
急速に環境が変わる今、何を感じているのでしょうか?
パラリンピアンたちにとって、2020は“ゴール”ではなく、人生のひとつの通過点かもしれません。その彼らがずっと競技に向き合うことが出来るのは、2020という目標が現れる前から支えてくれた人たちがいるから。そして今があるのではないでしょうか。

2017年9月に行われるはずだった、世界パラ競泳メキシコ。当サイトではこの世界大会にあわせて、「パラ競泳」に魅せられたお二人をご紹介し、パラ競泳の奥の深さや楽しみ方を伝えようと計画していました。
二人目は、日本身体障がい者水泳連盟の櫻井誠一さんです。(2017年9月上旬にインタビューをしました)


人間の体は、どう動くのか

 

2017ジャパンパラ水泳競技大会で解説をしていた櫻井さん


――櫻井さんがパラ競泳に関わるようになったきっかけは?
1989年に、今のアジアパラ競技大会の前身の「フェスピック()神戸大会」が開催されたのですが、当時、私は神戸市役所の水泳の実業団で泳いでいました。その時、行政側から「地元の選手を強くしてくれ」という依頼があって、強化のお手伝いをしたことですね。
※フェスピック:極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会。


――いつから水泳をされていたのですか?
高校の時に水泳部で、近畿大会ぐらいまでは行っていましたが、その後水泳をせずにいました。神戸市役所に就職後、実業団チームに入り泳いでいました。そこは名門で、全国でも上位に入る強いチームだったんです。

1964年東京オリンピックのあとに、レガシーのような形で各企業が『実業団』というスポーツクラブを作って選手を強くしていった時期がありました。新日鉄さん、富士通さん、日本鋼管さんなど、大企業が皆、バレーボールやバスケットや水泳の『実業団』という形でスポーツの普及が始まった時期です。 “東洋の魔女” ()に触発されたのかもしれませんが、ある意味、その形がずっと日本のスポーツ界を支えていたのですが、(バブル崩壊後の)2000年以降、経済が悪化していくと同時に、会社が運営しない形の『クラブチーム』に移行していったんです。ですので、私がパラ競泳にかかわり始めたのは実業団が各々争っていたときでしたね。

“東洋の魔女”・・・1964年東京オリンピック・女子バレーボール決勝戦で、日本は身体能力で大きく差が開けられていたソ連と対戦。回転レシーブなどの独自のプレースタイルで、悲願の金メダルを獲得した。

2016年7月 三重県鈴鹿市で行われた選手育成合宿より

 「フェスピック大会に向けて選手を強くしてほしい」という福祉局の依頼で障害者の指導を始めた時は、大会後に指導を終わりにする話もありました、でも、育てた選手たちが「続けたい」と言ったので『神戸楽泳会』という水泳チームを作りました。この名前、僕がつけたんですけど「楽しく泳ぐ」と同時に、「楽に泳ぐ」という意味で。なぜかというと、彼らの泳ぎを見た時に、競泳スタイルではなくて効率の悪い泳ぎしていたんです。「しんどいやろ?もっと楽に泳げる泳ぎ方があるよ」と、水の掴み方や、キックとのバランスなどを教えたところ、『神戸楽泳会』がすごく強くなり、毎年開催されている日本選手権ではリレーとかのメダルをかっさらっちゃった。方々から「なんでそんなに強いの?」と聞かれたのですが、それはいわゆる“競泳選手”が指導しているからだと。今までは、障害者福祉センターで、あまり競泳経験のないボランティアさんがリハビリやレクリエーションという形で練習していましたから、競泳という形で指導を始めたのは日本で初めてだったそうです。

そうして楽泳会が強くなり、パラリンピック選手は10人以上出ていきました。山田拓朗(2016年リオパラリンピック銅メダル)も楽泳会の選手です。

 

――その間、ずっと神戸市役所に勤めていたのですか?
はい。僕だけではなくて、3~4名のチームのようなものを作って障害者を指導していました。障害者水泳連盟の人から「他の地域の指導もしてほしい」と頼まれて、次第に全国の指導もするようになりました。

――仕事をしながら全国で指導されると、相当な2足の草鞋じゃないですか。
我々も泳ぎますので自分の健康も兼ねてですね。指導していたというより「練習にちょうどいいわ」って一緒に泳いでいました。そこが個人として感じる魅力につながるのですが、足や手が欠損している選手を教える時に、どう教えたらよいかわからないので勉強を始めたら、自分の体の動きを理解しだしたんです。
私たちは健常者、ノーマルボディですから、普通に体を動かしていても自分がどう動かしているか意識がない。けれども彼らを教える時に、例えば、手が欠損している場合には左で呼吸した方がいいのか、右で呼吸した方がいいのかとか、バランスをとったり、水を速くかくことを考えたときに「なぜこれができないのか」ということにぶつかる時がある。そこから“水泳の科学”に興味をそそられ、理解できるようになって来た時に自分自身の泳ぎがわかって速くなりました。非常に面白かったです。

――彼らの動きを理解していくうちに、水泳の科学、力学を勉強して、自分にも当てはまったのですね。
そう。僕の当時の仕事が、たまたま新しい病院のプランニングをしていた。病院にいたので、医学雑誌などを図書館で見て、自分がリハビリテーションなどを勉強するきっかけになって、ちょうど環境が良かった。
常に逆なんです、自分の場合。(神戸楽泳会で競泳の)実践をつきつめていくと“リハビリ”で、疾病のこと知らないと…って。逆に勉強していくことで、指導とリハビリをつなぎあわていった形ですね。
楽泳会が10年目ぐらいの時に、自分の勉強を兼ねて指導用テキストを作って出しました。そういうことをすると「人間の体はどう動いているか」という知識も増えて、自分自身も面白くて。仕事が忙しい時期は、仲間と一緒にやりました。

――そうして30年近くパラ競泳にかかわっていらっしゃる。
僕が最初に選手をつれて海外に行ったのは、1994年、マルタ共和国で開催された第一回の世界選手権。世界選手権といいながら本当に小さい大会で。電光掲示板も全然動かないし、コピー機でコピーしたら真っ黒だったり、プールは塩分が含まれててしょっぱいし。ワインは美味しかったけど。
1996年のアトランタパラリンピックでは監督、2000年のシドニーはヘッドコーチ。2004年のアテネは仕事が忙しくて行けなくて、NHKの福祉番組で解説をしていました。2008年の北京はJPCの強化委員だったので全競技を見る立場に。2012年のロンドンも同じような立場で、競泳の方は現場に任せて動いていました。


五輪とパラ、一体化した練習環境を

写真

2016年7月 三重県鈴鹿市で行われた選手育成合宿より


――海外選手との違いについてお伺いしたいのですが。
日本のパラ競泳は福祉の分野だったので、アスリート視点での取り組みは遅れているんですよ。それが変わってきたのがまさしく2016年、去年からなんですが、他の国より4年遅いんです。皆、北京の時は様子見でしたが、ロンドン大会ではパラリンピックの価値が全面に押し出されて閉会した。そこから、各国はリオに向けて体制を変えて取り組み始めたんです。
どういうことかと言うと、例えば、オーストラリアやニュージーランドなどは、もともと地域スポーツから始まっているので、学校など関係なく地域にプールがあり、プロの指導者がいて、そこへみんなが行って教えてもらうんですね。だからオリンピックの選手もいればマスターズ(水泳※)もいるし、レクリエーションで水泳をする人もパラの選手も、みな同じところで練習している。そのかわり、50mプールが2面も3面もあったりするんですね。なので、パラとオリとの垣根がない。
ロンドン大会以降、イギリスやオランダもカナダも、垣根をなくしてオリンピック競技団体の中にパラ部門が入ってしまった。日本はそれができていないですけど。オリンピックのコーチがパラのコーチになるし、その逆にもなる。さらに、カナダのコーチがイギリスのコーチになるというように、職業コーチを中心に動き出して、その時に同じようなトレーニングメニューになった。だから、ロンドンからリオにかけて、海外ではパラの選手を“アスリート”として強化してきてるんですね。

ですから、リオ大会でびっくりしたのは、体の違いです。2015年の世界選手権では「ちょっと体つきが変わってきたな」くらいでしたが、次の年のリオでは明らかに変わっていて、日本は遅れたなと思いましたね。
※マスターズ水泳:国際的には25才以上、日本では18才以上の競技者が参加する


同合宿より


――健常の選手と練習などを一緒にすることでスピードを体感できたり、足りていない部分がすぐにわかるので、一緒に泳ぐことは悲願だと聞きました。
それも大事ですし、身体トレーニングですね。健常者と同じようなトレーニングをして、残された部分をより強化していかないと。
日本は、福祉の分野でしたから、リハビリやレクリエーションについてはうまく普及されている。ところが、アスリートを目指す人のためのシステムはないんです。例えば、オリンピック選手なら、中学で優秀であれば高校や大学へのスポーツ推薦がありますよね。でも、パラ選手にはない。ましてや、スイミングでパラの選手を育てるというシステムは・・・。パラアスリートの練習環境は作られてきていないというのが日本の現状なのです。

――環境整備ができている部分はありつつ、できてない部分もまだまだたくさんあるので、一つずつ積み上げていかないと…。
2020年に間に合わせろと言われてもなかなかね。
ほかにも、中国やロシアなんかの、昔で言う社会主義的な国は、一か所に選手を集めて養成する形です。
もうひとつ面白いのが、パラ競泳ではベトナムの選手も強いのですが、「どこで練習してるか?」と聞くと川で練習していると。なおかつ昼間は、足を引きずりながら農業で体を動かしている。だから、フィジカルが強いんですよ。
だから、世界の強化システムには「欧米式」「中国式」「発展途上国式」があると思っています。欧米は、いわゆるハイパフォーマンスの科学を使ってオリンピックと同じような形で取り組みを進めている。中国は、選手を一か所に集めて。一番中途半端なのが日本。日本はどの道を行くのか?今、パラアスリートを短期間で育てろと言われたら、一か所に優秀な選手を集めて、ずっとアカデミーのような形で泊めて練習させるような「中国式」しかないんですよね。けれど、なかなかお金をかけられないから難しい。


パラアスリートの“体”を作りこみたい

 

――パラ競泳を初めて見る人は、障害のある部分をどのように見るのかわからない部分があると思うのですが。
なかなか“クラス”()というだけだと差がわからないですよね、“クラス”の中にも、選手それぞれの障害がありますから。海外選手であれば、残された筋肉を作りこんでいるので、「この障害であればこんなことは出来ないのにできている凄さ」というところがあるんですよ。

2017年9月ジャパンパラ水泳競技大会 50m自由形の山田拓朗選手。山田選手は50m自由形の場合、息継ぎをしないことが多い


例えば、左腕の肘より先がない山田拓朗の障害を例にすると、初心者レベルの時は、楽に呼吸をして浮力を最大限に生かそうと思うと、体全体が伸びている方が楽なので、欠損している側で顔をあげた方が楽なんです。ところが、それではスピードが上がらないので、欠損していない側で呼吸をする。その姿勢は、体幹が強くないとできないんです。
※クラス・・・パラスポーツを行う選手が公正な試技を行うため、障害の種類や状況の違いを考慮した分類


――体の短い方でバランスをとる難しさですね。
自分で体験してもらうと面白いんですけどね。

2017年9月ジャパンパラ水泳競技大会 100mバタフライの木村敬一選手。ブラックゴーグルを着けている


他にも、視覚障害者であればブラックゴーグルを着けて飛び込むことの怖さとか。ゴールの壁に全速力で行ってターンするなんて、これは僕もようしません。視覚障害者の泳ぎがまっすぐ、一定の方向に進むのは難しくて、レーンロープにぶつかつたり、左に寄ったり右に寄ったりします。スピードを出せば出すほどまっすぐ進むのが難しい。さらに、レーンに腕が引っかかったら失速するので、そうなってからも、また萎えずに行く…ここが“根性”ですね。自分のスピードが落ちた瞬間にもう一度出力をあげる、第二ロケットを発射するぐらいの爆発的エネルギーを持っていないと、視覚障害のレースは勝てない。木村(敬一)君の強さというのはそこです。健常者でも真似できないですね。


――若手に対してはなにかありますか?
2016年からやっと、義手やバーベルなどを使ってのトレーニングを始めることができたので、体作りができだしてきたのはリオ以降ですね。だいぶ選手たちも泳ぎらしくなってきました。そこから、海外選手のような、泳ぎの力強さ、切れなどが出てくればいいですね。何もかもが去年からです。

――2015年の勉強会で「メダカを金魚に、金魚をイルカに育てたい」とおっしゃっていたことがすごく印象に残っています。
女子選手は上がってきましたね。そういう意味では、昔から十分では無いなりに仕組みを作り、育てていくことはやっているのでベースはあるんですけどね。

2016年2月 奈良県と水泳連盟共催の練習会に参加していた宇津木美都選手。この後、本格的に競技をスタート。今では2017年世界選手権・日本代表になるまでに。


練習会集合写真

同練習会より


――約30年前、神戸楽泳会で“初めて競泳選手がついて指導した”という原点と重なりますね。
そうですね。それを“日常”にすることが、これからも課題ですね。


櫻井誠一
1949年神戸市生まれ。
一般社団法人日本身体障がい者水泳連盟 常務理事・技術委員長
日本パラリンピック委員会 副委員長

1989年 神戸市で開催された「フェスピック神戸大会」をきっかけに、実業団水泳選手の経験から、障害者競泳選手育成のボランティア活動を開始、数多くのパラ競泳選手を育てる
2016年 リオパラリンピックでは日本選手団 副団長を務めた
現在、2020東京パラリンピックのため東京に赴任、活動中。

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