スポーツが人生を変えた ~1964→現在へ あるパラリンピアンの半生~①1964年大会、一番の思い出

2017年12月22日
スポーツが人生を変えた ~1964→現在へ あるパラリンピアンの半生~①1964年大会、一番の思い出

1964年11月8日。障害者スポーツの祭典パラリンピックが東京で開幕しました。日本のパラリンピック参加はこの大会が初めて。当時の日本代表として、車いすバスケットボールとアーチェリーに出場した近藤秀夫さん(82)が今回の主人公です。
パラリンピックへの参加が大きな人生の転換点となったという近藤さん。その波乱に満ちた半生を5回に分けてご紹介します。

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近藤秀夫さん
16歳で事故にあい、障害者施設で長く暮らしていたが、29歳のときに1964東京パラリンピックに出場。車いすバスケやアーチェリーなど、6種目に出場した。

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1964年11月8日、パラリンピック東京大会の開会式が行なわれ、9競技144種目に21か国・地域から375選手が参加する熱戦が始まった。日本選手団は東京大会が初参加となり、53選手が出場した。金メダルは1、銀メダルは5、銅メダルは4でメダル獲得数は全体の13位だった。 写真は、パラリンピック東京大会の車いすバスケットボールで対戦する日本チームと米国チーム



①1964年大会、一番の思い出 

――1964年東京パラリンピックの一番の思い出はなんでしょうか?
私が、一番印象に残ってるのが、収尿器()。中村裕先生が選手に、「車いすバスケをするのなら“これ”をつけないとできないから」と言って配ってくれたんです。収尿器はその当時、日本になくて、アメリカから取り寄せたの。
パラリンピックという言葉のパラという言葉はもともと脊髄損傷(パラプレジア)による下肢まひを意味してるんですね。だからパラリンピック発祥の地・イギリスへ先生が行った時には、全部脊損患者ばかりの、療養所のような所で皆がスポーツをしていたらしいのです。
※収尿器・・・排尿障害となった場合に補助具として用いられる道具。

――第1回の、ストーク・マンデビルですよね?
そうです。なぜ収尿器が必要なのかというと、脊髄損傷者は排泄物が分からないんです。これから(胸から)下が麻痺してしまって動かないだけじゃなくて、おしっこもうんちもできない。子どもも作れなくなるんですよ。そうしたらもう、当時は「人間じゃない」と言われていた。「生きがいも、なんにもなくなった人生にどうかならないか」というところで先生が考えたのが“スポーツ”だったんですね。
私たちは、中村先生に言われて脊髄損傷者のスポーツを日本で初めて取り組んだ。特に、車いすバスケは過酷な競技なので、おしっこはオムツをしてやったんじゃダメだっていうので、中村先生はアメリカでは販売されていた収尿器を仕入れて。当時はものすごく高価で、「自分じゃ手が届かないから」って国から予算を取って支給してくれたんです。


――うわぁ、すごい。
でも、それが配られたのが、選手村に入る前の日ぐらいでしたから、着け慣れなくて、おしっこがなかなか出なかったんですけどね。
大会後、施設に帰ったら先生が収尿器を回収するっていうんですよ。国の予算で買ったものだから、お金を返すか、ものを返さないといけないと後からいわれて。「明日集めるから、今晩のうちに水で洗って返せ」って。当時、私たち男はズボンなんか新しいのをはいても前が焼けてしまって3か月もたない。厚いオムツをするいうても、まだ大人のオムツはなかった。大人のオムツは高齢社会になって出始めたものだからね。
それで私は「分かりました、明日じゃあ返します」言うて、その晩のうちにバラしちゃったの。

――なぜ?!
バラして作り方を覚えちゃったの。そして、作りましたよ。だから私が日本の収尿器、手作りで収尿器を作った第1号です。これは売れました。

――いい“贈り物”になったんですね。
労災病院には脊椎損傷と脊髄損傷者ばかりいる病棟があるんですよ。そこへ行ったら売れるんです。女性はわからないけど、男性は売れましたね。部品は、いろんなところから寄せ集めて、手作りした。
最初は便利だ便利だって言われて、すっごく売れてたけど、手作りだから管を止めてる所からどうしても漏れちゃうのね。自分のなら漏れても仕方がないと思うけど、売り物だから苦情が出てくる。私一人では対応ができなくなって、製造中止。
そうしたら、施設にいた看護婦さんが保健婦の資格を持っていて「全国の保健所の保健婦に流すニュースの中に収尿器の作り方を連載しないか」という話になって。これがまた当たりましたね。図解も入れて、苦情が来た経験を生かして、こういうデメリットもあるということまで書き添えたら、すごく好評になって。連載が終わったと思ったら、「読んでないいう人がいるから、頼むからもう1回やってくれ」って3回ぐらいやりましたね。そんな時代でした。
3年後、ようやく日本のメーカーで収尿器がつくられるようになったんです。しかも、単品で買ったらすごい高いので、お医者さんの診察から、脊髄損傷者など必要だと認められた許可が降りた者だけがもらえるという、制度ができました。


――お金はあっても、大人用オムツや収尿器のように、道具自体がなかった時代なのですね。
映画を観に行く時などは必ずみんな大きな瓶を持って行っておしっこしたりね。そういう時代の障害者なんですよ。
収尿器はパラリンピックとは違うけれども、私の経験上、すっごく大きいできごとでした。


スポーツが人生を変えた~1964→現在へ あるパラリンピアンの半生~
②ジャスティン・ダートが残してくれたもの、に続きます


スポーツが人生を変えた ~1964→現在へ あるパラリンピアンの半生~
①1964年大会、一番の思い出
②ジャスティン・ダートが残してくれたもの
③障害が、私を引っ張りまわした
④段差が取れた後には、何が残るのか
⑤"障害"はなくならない

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