スポーツが人生を変えた~1964→現在へ あるパラリンピアンの半生~ ②ジャスティン・ダートが残してくれたもの

2017年12月22日
2020年東京パラリンピック

スポーツが人生を変えた~1964→現在へ あるパラリンピアンの半生~
①1964年大会 一番の思い出、からの続きです


近藤さんは東京パラリンピックの後、不思議な縁で日本タッパーウェアという会社に就職し、営業をしながら車いすバスケをすることになりました。社長はアメリカ人で車いす利用者のジャスティン・ダートという人物で、近藤さんを含め雇われた障害者は10人。ダートは彼らのため、井の頭公園に隣接していたフランス大使館の別邸を買い取ってバリアフリー化して寮にしたり、当時日本に5台しかなかった車いすごと乗ることができるバスを一台買って送り迎えをしてくれたりしたそうです。

②ジャスティン・ダートが残してくれたもの

「アメリカでもそこまでしないけど、当時の日本の社会レベルで障害者を10人揃えるならここまでやらないと」と、ダートは言ってましたね。しかも会社に通う社員として。・・・本当に破格だった。
ただ、ダートはある出来事がきっかけで2年で辞めるんだけど、辞めるちょっと前に「お前たちライセンスを取らないか」って言ってきたのね。「しめた!車乗る免許証が取れるんだ」ってみんなで喜んでいたわけ。ところがダートはあんまり嬉しそうな顔をしない。なんと、彼が言うライセンスは飛行機だったの。

――ライセンスを持ったとしても、飛行機、置く場所ないですよ!
車を持つことも大変で、しかも障害者で車の免許を持った人がいない時代なのにね。ダートは後で「あの時はガックリきた」って言っていたね。でも、10人に免許を取らしてくれて、車を買ってくれたの。そして、買ってくれる時にはアパートも借りてくれたの。そのアパートから品川の仕事場に行く、通勤用の足として整えてくれて、彼はアメリカに帰っていった。時代が違うよね。


――ダートさんは魔法使いのようですね。そしてその生活が自立につながって?

ダートとの仕事で、私たちのレベルがあがっていったの。一緒に仕事をした約2年、必要なものは全部会社から支給された。胸に会社の大きなマークをつけたスーツを着て、日本中回るんだもん、大体2人ぐらい、社長について。
「今度は、お前と行くぞ」「今度は秋田」「今度は北海道」「今度は大阪、九州」って。会社の全国販売網を周って売り上げトップになった人が6か月続くと自動車をやるぞとかいうのよ。車の鍵が渡されるの。


――クイズ番組の景品みたいですね!
そうそう。それを社長が渡すわけ。みんな名前を呼ばれた瞬間に足が震えだしてね。ある期間、売り上げがトップだったら家をくれるの。違うでしょう?だからもう、目の色を変えて売ってたのよ。
日本では、会社の商品が爆発的に売れてたの。ダートは「パラリンピックで日本選手が弱いのは、選手が弱いんじゃなく国の政策の中にスポーツがないから。自分は日本で儲けさせてもらったから、日本の障害者に貢献したい」といって、ランダムに10人の障害者を選んで、すべて“オーダーメイド”でやった。本当に、施設から出る所もなかった私が、パラリンピックを通して会社に入った瞬間パァーッと広がっちゃったわけよ、人生が。


――みなさん“シンデレラ”のようで・・・。

けれども、会社の幹部から「障害者に力を入れすぎてる、お金をかけすぎてる」と文句が出たんだって。その時ダートは「会社のデータを見たら分かる」といったの。実は、そのお金は全部ダートが自分で出してた。会社のお金は一銭も使ってなかったの。

――えー!!
もう規模が違うわけよ、すごかった。
でも、「部下からそういう意見が出るということは、結局、自分の管理の落ち度だから」と言うて社長を退いたわけ。


スポーツが人生を変えた~1964→現在へ あるパラリンピアンの半生~
③障害が、私を引っ張りまわした、に続きます


写真

近藤秀夫さん
16歳で事故にあい、障害者施設で長く暮らしていたが、29歳のときに1964東京パラリンピックに出場。車いすバスケやアーチェリーなど、6種目に出場した。

スポーツが人生を変えた ~1964→現在へ あるパラリンピアンの半生~
①1964年大会、一番の思い出
②ジャスティン・ダートが残してくれたもの
③障害が、私を引っ張りまわした
④段差が取れた後には、何が残るのか
⑤"障害"はなくならない


【関連動画】2020につなぐスロープ 東京 渋谷区 代々木公園(2018年5月8日)

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