スポーツが人生を変えた~1964→現在へ あるパラリンピアンの半生~ ③障害が、私を引っ張りまわした

2017年12月22日
スポーツが人生を変えた~1964→現在へ あるパラリンピアンの半生~ ③障害が、私を引っ張りまわした

スポーツが人生を変えた~1964→現在へ あるパラリンピアンの半生~
②ジャスティン・ダートが残してくれたもの、からの続きです。


国際障害者年担当室の看板をかかげる小渕恵三総務長官。国連は1981年を「国際障害者年」とすることを決め、「完全参加と平等」をテーマに、「障害者に雇用の機会を与える」「障害者が公共建物や交通機関を利用しやすくするよう研究する」など5つの目標を掲げ、各国に取り組みを求めているが、政府は1980年4月7日、総理府内に国際障害者年担当室を設け、国内施策の取り組み準備を開始した。


③障害が、私を引っ張りまわした

――障害者・健常者関係なく、自分からなかなか一歩踏み出せない方はたくさんいると思うんです。特に、“外の世界”に接することが少なければ、自分で自分の可能性を決めつけてしまうというか。そういう方が、変わるきっかけであったり、一歩踏み出すために声をかけるとすれば、どういう事を伝えられますか?
難しいのが、私の例はラッキー中のラッキー、ラッキーの上に団子が乗ってるようなものだからね。


1964年の東京パラリンピックを見たダートは「日本が勝てないのは選手の責任ではない。国が障害者スポーツを施策に組み込んでいないからだ」と言って、私たち10人を雇い、職を与え、徹底的に車いすバスケを教えた。私たちは日本で最初のプロチームだったんです。アメリカの専属のコーチを雇い、3か月間体育館を貸し切って、鍛えられることもありました。
ダートが退職してからは、私たちも会社を辞めてしまうんだけど、それぞれで車いすバスケのクラブチームを立ち上げたの。そのひとつが『東京スポーツ愛好クラブ』というのが、民間クラブチームの第1号。
ただ、私はほとんど試合には出なくてね。何をしていたかというと、体育館のコートを借りる交渉係をしていたんです。体育館の入り口に段差があったら「段差をとってくれ」と交渉したり。そうしたらいつの間にか「障害者の街づくり運動を近藤がやっている」と言われるようになったの。


――ひとつのきっかけが、次の道につながっていくのですね。
1974年ころには、町田市がJRと小田急線の駅が離れてるのを、引っつける都市開発をしてたの。そこで市長は、「緑と車いすで歩ける町作り」というキャッチフレーズを作ったんですよ。ところが、実際には「どう開発していいか分からない」となってバリアフリー化が進まない。「当事者を雇わないとわからないよ」となって私が呼ばれて雇われたんです。中学校にも行ってない私が、東京の町田市の地方公務員に繋がるきっかけになっちゃった。
そういうように、人生がついて回ってんの。これはあの時代の特長じゃないかなあ。


――そうかもしれないですね。
私は好きで乗ったんじゃないけれども、時代が私を引っ張り回したんだと思ってる。
そして、その後に国際障害者年(1981年)が決まった。国の役所がプロジェクトを作って障害者問題を考えるんだけど、ここでも同じく当事者がいないからわからない。私、地方公務員でしょ?だからもう本当に引っ張りに引っ張られたの。私が「町田市の仕事もあるからそんなにできないよ」といったら、市長が「どんどん行って、よそから情報持って帰って来てくれ。それが君の役割だ」って言われて。えーっ!と思ってね。上手い具合に時代に乗れたのよ。


スポーツが人生を変えた~1964→現在へ あるパラリンピアンの半生~
④段差が取れた後には、何が残るのか、に続きます

近藤秀夫さん
16歳で事故にあい、障害者施設で長く暮らしていたが、29歳のときに1964東京パラリンピックに出場。車いすバスケやアーチェリーなど、6種目に出場した。


スポーツが人生を変えた ~1964→現在へ あるパラリンピアンの半生~
①1964年大会、一番の思い出
②ジャスティン・ダートが残してくれたもの
③障害が、私を引っ張りまわした
④段差が取れた後には、何が残るのか
⑤"障害"はなくならない



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