スポーツが人生を変えた~1964→現在へ あるパラリンピアンの半生~④段差が取れた後には、何が残るのか

2017年12月22日
ポーツが人生を変えた~1964→現在へ あるパラリンピアンの半生~④段差が取れた後には、何が残るのか

数寄屋橋交差点のように歩車道段差が解消される(1974年5月)

スポーツが人生を変えた~1964→現在へ あるパラリンピアンの半生~
③障害が、私を引っ張りまわした、からの続きです


④段差が取れた後には、何が残るのか

――近藤さんは、29歳で東京パラリンピックに出て以降、障害によって遮られる距離を“バリア”として語り、取り除く人生が続いていきますが、今の時代は、物事のムーブメント、熱がふっと高くなって冷めやすくなったり、熱が持続しにくいように思います。一人ひとりが気持ちを持ったり、行動を起こすようにするにはどうすればよいのでしょうか?
それは難しいね・・・。例えば、町田市で働き始める前の1973年に仙台市で「車いす市民全国集会」というのが行われてね。
この時代、障害者は外へ出られなかったし、出ることのできる人が少なかった。なぜなら、移動する事ができなかったから。重度障害者にとって、「いざ!」って移動する先の最初は、家の座敷。
まずは家の中でどう動くか。そうやって障害物を取り除いていくわけよ。障害物の一番大きいのは家族。その次が日本家屋の敷居だったわけ。そういう物が無くなっていって、人間は移動したわけよ。私は、それが元になって町作りを始めたし、それが元になって車いす市民集会を始めたの。朝日新聞の厚生文化事業団がお金を出してくれて、町作りについて情報交換をすることになった。なぜ仙台行われたかというと、車いす用トイレと、横断歩道と歩行者の段差の解消を日本で初めて完成させたのが仙台市だったの。だから、国から、仙台が福祉の町作り第一号に指定された。

私たちが目指した“段差がない事”が現実になったらどういう町になるのか?というのをみんなで仙台に見に行ったの。
私は自分で、自動車で行けたけれども、そうではなくて、公共交通機関を使って行くことになった。みんな、自分では動けないから、主催者がボランティアを集めてくれた。そして、仙台の集会に行くために一般公共交通機関を使ったらどれだけ大変だったか、という事を口々に言うわけ。普段言わない人でも、その体験を語ればいいから言えるわけよ。それが日本の町作り運動の初めになっちゃったわけ。

活発な議論の一番最後に、なにか社会的にアピールする“宣言”を出そうとなったの。私は「障害者の段差の解消というのは、人権問題である」と直感的に思っちゃったわけ。それで「人権という言葉を最後のまとめにぜひ入れるべきだ」と言ったら、仙台の人たちが「固すぎる、浮いちゃう」と猛反対して。
私はムキになってね。「浮くはずがない。その討議を今日したじゃないか。敷居が高過ぎるとか、バスに乗りにくいとか、ましてやそういう物を使う権利は元気であろうと障害者であろうと一緒のはずだ。障害者が使えないという事は人権が阻害されてるんだ」と言っちゃった。ところが、まだ障害者運動が盛んじゃない時期だったから「人権という言葉が宙に浮く」となって、取り上げられなかったのね。もう喧々諤々で、私一人だったの人権論は。その議論を聞きに来ていた人の中に、町田市の福祉事務所の係長がいてね。市長から「障害者を雇いなさい」と言われていたから雇われちゃった。
1974年には町田市で『福祉環境整備要綱』を作ったんだけど、そこで車いす用トイレを提起したわけ。同じような所に手洗いがあって、鏡が付いてるでしょ?あの原形は私が作ったの、町田で。今はもちろん少しは変わっただろうけど、原型はそのままでしょ?そういう時代だったのよ。

だから、なんて言うんだろうね。“自分たちの問題”が自分たちだけじゃなく、多くの立場の人にとってどうか、そういう問題の根本にある問題を見つめるようなムーブがなされないと、広がらない、社会的には。だから、障害者運動としてその時は広がらなかったけど、結果としては、車いす用トイレはキチッと残って、「段差は解消すべき」って残ってるわけ。
それはいい時代で、私は時代に乗っていたんだなと。

また、なにかをやっている運動家はたくさんいるけど、運動の捉え方というのかな。障害者の重度障害者にとって、自宅の中で畳の上をお尻で行く、それが障害者の移動。そこから社会的に広がって行くと交通に繋がって、その中にどういうバリアがあるかという事をキチッと論点を正して、取り除いて行くことが社会的システムづくりに必要じゃないかと。私は自分が障害者だったから、そういうことを全部言えたわけ。
それでね、私は歴史が好きなんだけれど、歴史通して考えてみるわけよ。例えば、街角の一段の段差が、私がうるさく言った事で取れるとするじゃない?取れてしまったらもう誰も知らないわけよ。しかし“あったということ”が大きい意味があるのよ。段差があっていつまでも残しといたら、障害を持った人はそこでつまづくわけじゃない。ところが、それを取ったら、元気な人と同じように対等に歩ける。その段差、障害は“個人の障害”じゃなくて、取り除く事によって“社会の大きな障害”を取り除いているわけ。もちろん大きい・小さいあるけれども、未来への歴史的に見ると大きな価値のある問題・・・ここが問題なのよ。やっている事の本当の価値を自分で位置づけ、自分で人に伝えて行く。それが私の時代の障害者運動だったのね。だから私は、これだけ多弁になっちゃうんだけど。


――私たちはきっと、なれた部分を歩いて来ているんですね。それはそれで幸せな事ですが。
そうそうそう。そうやって歴史っていうのは広がって行くものなんだという事を我々は言うわけね。「ああ、そうか。障害というのはなくなる事によって、改めてその一段がどれだけ大きい、未来への歴史的問題だったかという事にぶち当たるんだ」って。

スポーツが人生を変えた~1964→現在へ あるパラリンピアンの半生~
⑤“障害”はなくならない、に続きます

近藤秀夫さん
16歳で事故にあい、障害者施設で長く暮らしていたが、29歳のときに1964東京パラリンピックに出場。車いすバスケやアーチェリーなど、6種目に出場した。


スポーツが人生を変えた ~1964→現在へ あるパラリンピアンの半生~

①1964年大会、一番の思い出
②ジャスティン・ダートが残してくれたもの
③障害が、私を引っ張りまわした
④段差が取れた後には、何が残るのか
⑤"障害"はなくならない



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