「遺志を継がねばいかん」と思っています ~中村裕の情熱に触れて②

2019年8月19日
写真:中村裕医師

1964年11月、オリンピックの興奮さめやらぬ中、開幕された東京パラリンピック。日本選手団団長を務めたのが、“日本パラリンピックの父”と呼ばれる中村裕医師です。中村医師と関わりのあった方々の証言をもとに、その情熱の人生を紹介します。

※この記事は2018年8月13日に掲載されたものを元に、再構成いたしました。

写真:1964年東京パラリンピック出場 須崎勝巳


◆スポーツ、就職、そして自立―中村医師が教えてくれたこととは。須崎勝巳さんに聞く。

――中村先生との出会いを教えてください。
事故で怪我したんですよね。そこで4か月くらい個人の病院に入院したのですが、先生に「訓練が必要だからうちからはもう出ていってくれ」と言われて。その時は車いすもなにも、ただ寝たきりの状態だったんです。身内が中村先生という名医がいると調べてくれて。当時、先生に診てもらいたい患者がいっぱいいたと思うんですが、診てもらえました。私はクジに当たったようなものだと思っています。

――初めて会ったときの中村先生はどんな印象でしたか?

国立病院の先生らしく、威厳があって、ちょっと怖いなと思いました。いきなり「これからどんな仕事をしますか」って言われて、私はもう返事ができなかったです。怪我をしてから仕事なんか考えたこともなかったから「なんでそんなこと聞かれるんかな」と、わけもわからなくて。ちょっと黙ってから「体がよくなってから考えます」とかなんとか答えたんですけども。

――怖いという印象はその後変わりましたか?

私から中村先生に言葉をかけるようなことは滅多にできませんでしたが、顔見知りになると、中村先生のほうから「しっかりやりよるか」とか、声をかけてくれました。太陽の家へ入ってからは、「いいものを作りなさい」とか「嫁を大切にしろ」とか(笑)。体調のこともよく聞かれましたね。いつも体を気遣っていただいて。今でも、言われたことは守っていますよ。

――東京パラリンピックは、どんな経緯で出場が決まったんですか?

私が出たいと言ったわけじゃないんですけど(笑)。中村先生やほかの先生たちがみんな、「できるんだからやってみようよ」と。車いすに乗り出してから東京パラリンピックまで一年ちょっとでしたから、あんまり長時間車いすに乗ったこともなくて。まだ何もかもわからんときだったので、「私が出場していいんじゃろか」とか不安ばっかりでしたね。

――たくさんの種目に出られたそうですね。

はい。とりあえず1回やってみて、できそうだからやってみようって。バスケと水泳と陸上競技の車いすスラローム、100メートル走、やり正確投げ、それから卓球。全6種目に出場しました。卓球はダブルスに出場したんですが、ルールも知らなくて、ぶっつけ本番で。パラリンピックに出るぞと言われ、初めてスポーツってものをどんどんやりだした。だから得意種目も特にないんですね。みんな練習不足だった(笑)。

写真

須崎勝巳さん


――その後、変化はありましたか?

外国の障害者はみんな社会復帰して、みんな結婚もして、自立した生活をしていると、その時聞いたんです。中村先生は、日本でもそれを目指すべきだと考えたんじゃないでしょうか。あのころ日本では、障害者は保護されていて、働かなくていいような時代だった。でも外国人選手を見て「自分もやっぱり両親や兄弟を安心させないかん」と思った。家にこのままずっとおるわけにいかんし、離れて何か仕事せないかん、職業を持たねばと。障害者自身にそういう意志が強くなったと思うんですよ。

――パラリンピック出場をきっかけにスポーツをはじめて、現在は何かやってらっしゃいますか?

ボッチャとか、グラウンドゴルフ、卓球バレー。それと、車いすランニングをしています。車いすランニングは1か月に100キロが目標です。パラリンピックに出ていなかったら今こんなにスポーツやっていなかったかもしれないし、体力もなかったかもしれない。「健康でおらないけん」って中村先生から言われたことをずっと守っています。守らなきゃ、と思ってるから、今でもこうして続けられてるんじゃないかと。今も健康でいられるのは中村先生のおかげだと思っています。

最後に先生とお話ししたときに「障害者が終生を安心して過ごすにはどうすればいいか」ということをおっしゃっていました。先生は何千人もの障害者と接しているけれども、全員が不安を抱いていると言っていました。ある程度長生きもできるようになると、親のほうが先に死ぬでしょう。障害者が安心して最期を迎えるにはどうしたらいいのか、「今からなんとかせにゃいけん」とご自分が亡くなられる前に考えておられました。自分が元気でいるかぎりは、その遺志を継がねばいかんって思っています。



写真

須崎 勝巳
すざき かつみ
20歳の時に事故で脊椎を損傷、下半身まひになり、事故の4か月後に地元の病院から中村医師のいる国立別府病院に転院。中村医師のもと、1964年東京パラリンピックに出場した。

※須崎さんの動画はこちらにも→
 日本パラリンピックの父 大分 別府市(2018年3月28日)

◆日本パラリンピックの父・中村裕

写真:中村裕医師


1964年11月8日。オリンピックの興奮さめやらぬ中、東京パラリンピックが開幕しました。その東京パラリンピックで日本選手団団長を務めたのが、“日本パラリンピックの父”と呼ばれる医師・中村裕です。

中村裕医師は、大分県別府市に生まれ、1951年に九州大学医学部を卒業。整形外科医として国立別府病院で脊髄損傷患者の治療にあたっていた1960年、研修先のイギリスでスポーツを取り入れたリハビリテーションを学びます。

帰国後、障害者スポーツを日本で広めることに尽力し、1964年東京パラリンピックを開催するために奔走。同大会では、日本選手団団長を務め、成功に導きました。1965年、障害者の自立と就労を支援する「太陽の家」(大分県別府市)を設立。障害者スポーツの振興と障害者の社会復帰に大きな貢献を果たした人物です。


2018年に放送したドラマにドキュメンタリー取材を加えたものを放送します。

『太陽を愛したひと 1964あの日のパラリンピック』ドラマ&ドキュメンタリー
【放送日時】2019年8月25日(日)[BS1] 夜10時~11時50分
【脚本】山浦雅大
【原案】三枝義浩「太陽の仲間たちよ」
【音楽】栗山和樹
【歌】サラ・オレイン
【出演】向井理 上戸彩 志尊淳 安藤玉恵 山口馬木也 尾上松也 飯豊まりえ 田山涼成 松重豊 / 岸惠子

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