“見えない”障害と共に歩んだ24年間(前編)- 後藤佑季

2020年10月5日
写真:後藤リポーター

去年、私は大学を卒業し、新社会人としての道を歩み始めました。
2017年10月から続けていた学業と仕事の2足のわらじを終え、“大人の世界”に足を踏み入れたのです。
「障害のあるリポーター」として採用された私は、障害のある当事者としての「視点」が常に求められています。
10月でリポーターとして丸3年を迎え、改めて私の「聴覚障害と歩んだ」人生について振り返りたいと思います。

目次
■「聴覚障害」だなんて、気づかなかった!
■「いまのわたし」の礎はここに
■人工内耳?補聴器とは違うの?
■人工内耳で世界が変わる!でも、万能ではない
■思いもよらなかった、試練の連続



■「聴覚障害」だなんて、気づかなかった!


私には、生まれたときから「進行性の感音性難聴」があります。簡単に言うと、音を認識する部分である“内耳”に障害があるのです。

先天性ですが、障害が判明したのは2歳半の時でした。
判明が遅かったのは、私が「勘がよかったから」だそう。例えば、母が「新聞を持ってきて」と言ったらちゃんと持ってきていたからです。

2歳になっても、なかなか話しはじめなかったので検査したところ、難聴だということがわかりました。
進行性のため、幼少期は軽度難聴でしたが、今は人工内耳という補聴器具を外すと全く聞こえない、最重度難聴です。

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まだ聴覚障害が判明していない1歳ごろの私。周りの人の言葉は届いていなかったはず…

両親は、私に障害があるとわかったとき、毎日のように泣いていたそうです。
「どうして“普通”に生んであげられなかったのだろう」「どうしてうちの子が…」

けれど、両親は「泣いてばかりはいられない。この子は、これからを生きていくのだから」と前を向くことを決意します。
この頃のことは、さすがに私も覚えていないので、母親の記憶とメモをもとにしています。

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当時の母のメモ


まず、聴覚障害と分かった2歳半からは「補聴器」と呼ばれるものをつけるようになりました。
このころから、私と言葉とのつながりがようやく始まりました。「物には名前がある」ことを教わったのもこのころです。

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両耳に補聴器をつけている私。3歳ごろ

声に出して話す、“発話”については、小さい頃はまだ聞こえがよかったこともありますが、母と発話練習を重ねて身につけていきました。
サ行、タ行、ナ行が難しく、特に「つ」「す」は聞き分けも難しかったので小学校に入るころまで上手に言えませんでした。

聴覚障害がない子なら、自然と獲得していく発話と聞き取りを、私は「練習」する必要があったのです。
進行性だった私の難聴は、その努力とは反比例するかのように落ちていきました。
聴力が落ちるときには、めまいが起こり、体調も崩していました。幼稚園も、週に1回は体調不良で休んでいました。



■「いまのわたし」の礎はここに

小学校進学にあたって両親は、ろう学校と普通校のどちらに進学させるか悩んだそうです。
結果、選んだのは普通校で、大学までずっと普通校に通うことになりました。普通校の中でも通常学級で過ごし、いわゆる難聴学級にも入りませんでした。

その理由は「先に死ぬのは自分たちだから、1人でも生きていけるようになってほしい」という両親の考え方があったから。
「大人になったら健聴者、聞こえる人の世界で生きなければいけないから、たいへんなこと、不便なことがあっても、普通校の方がいい」、そう考えていたそうです。

そして、両親が大切にしていた「考え」がもう1つあります。
やりたいことは基本的にやらせよう。


両親は、いろいろなところに連れて行っていろいろな体験をさせてくれました。

写真:幼少期の後藤リポーター

乗馬も体験!

中でも、自分のことながら「すごかったな」と思うのが習い事です。

私はいろいろな習い事をさせてもらっていたのですが、特にスイミングとピアノは、どちらも聴覚障害のある子どもにとってはなかなかハードルが高いことでした。

写真:プールに浮かぶ幼少期の後藤リポーター

スイミングでは、プールに入る時に補聴器を外さなければいけないので、音が全く聞こえなくなります。
つまり、コーチの指導の声も聞こえなくなってしまうのです。
そのため、スイミングスクールに入ることをあきらめる聴覚障害の子どもたちは多いと思います。

私の両親は、1つ年下の妹を一緒に通わせ、その妹に手話で通訳をさせることや、コーチにお願いすることでこの問題を解決しました。
コーチとは慣れてくると、ジェスチャーや唇の動きを読み取る「読唇」で、コミュニケーションができるようになりました。


そして、ピアノ。

写真:ピアノの発表会でピアノを弾く幼少期の後藤リポーター

私はド、レ、ミなどの細かな音の違いがわからないのですが、両親は「楽譜通りに弾けばなんとかなるだろう」とチャレンジさせてくれました。
どんどん新しい曲が弾けるようになることが、とても楽しかったです。
聴覚障害者にとっては一番敬遠しがちなものを小さい時に経験させてくれた両親はすごいし、「できるんだ」という成功体験を積ませてくれたのだと、今振り返ってみると感じます。

そんな両親から「忘れてはいけない」と言われていたことがあります。

「自分で説明しないと分かってもらえないよ」


何に困って、どうしてもらうと助かるのか。自分で説明しないとだめだよと言われ続けてきました。
小学校低学年の頃は母が学校に来て説明してくれましたが、高学年からは「自分でやりなさい」といわれました。新学期になると時間をもらってクラスの子にどう聞こえにくいのか、どうしてくれると嬉しいのかなどを説明しました。指文字の50音表のポスターを貼ってもらって、クラスの子に覚えてもらったりもしました。

これが、今の私の基礎になっているように思います。

“障害”というプライベートな情報をオープンにしないと助けてもらえないのか、という意見もありますが、私は、現状の社会では「自分はオープンにすべきだ」と思います。


そして、両親からこうも言われました。

「健聴者の世界で生きていくけれど、あなたは聴覚障害者なのだから、ろうの世界も知らないといけない」


手話もある程度できるようになった方がいい、と母と妹と一緒に手話サークルに通っていました。
そのおかげもあって、手話は日常会話レベルならできます。

手話は、日本語とは別の言語として認められている自治体が多いため、私は「バイリンガル」なのです!(笑)



■人工内耳?補聴器とは違うの?

補聴器で生活していた小学校3年生の夏。一つの転機が訪れました。

「人工内耳」というものの装用手術を受けることになったのです。
私の障害は進行性のため、年を重ねるにつれ、聴力が落ちていきました。
小学校2年生のころには、自動車のクラクションの音も聞こえない最重度難聴の状態になり、補聴器では聞き取りにくくなったからでした。

手術を受ける前に、両親は人工内耳や手術のリスクを説明した上で、当時9歳の私に「手術を受けたいか」聞いてくれました。

私は、即答で「受けたい!」と答え、そんな私を見て両親は「もっと聞こえるようになりたい」のだと感じたそうです。


人工内耳の装用手術では、こうした装置を頭の中に埋め込みます。

写真:人工内耳の装置

(画像提供:日本コクレア)

このヒゲのように伸びた細い部分の先端が電極で、耳の奥の音を感じ取る部分、内耳の蝸牛(かぎゅう)という器官の中に通されます。

写真:耳の中に埋め込む人工内耳の仕組み

(画像提供:日本コクレア)


仕組みとしては、上の図のようなかたちです。

耳にかけている部分で音を拾い、信号に変えます。皮膚の内側の部分が磁石になっており、ここを通して信号が体内に伝わり、電極から聴神経を通して脳が音を認識する仕組みになっています。

人工内耳は、それまで使用していた補聴器とは大きく違うものです。

「補聴器」は、音を大きくしたり聞きやすい状態の「音」にして鼓膜に伝えます。
残っている聴力を最大限に生かしますが、残存聴力や障害の状態によっては限界があり、言葉の判別は難しいことがあります。
※「補聴器」の特性が分かるよう、上記の部分を修正しました(10/7)

そして、私が今つけている「人工内耳」は、音を電気信号に変えて聴神経に伝えるものです。そのため、音を感じ取る部分に障害のある人に有効です。
もともと健常者で、途中で難聴になって人工内耳をつけた人曰く「機械的な音」だそうですが、私は人工内耳で聞く音しか知らないので機械的だとは思いませんでした!

写真:人工内耳を装着する後藤リポーター

現在はこうやってつけています



■人工内耳で世界が変わる!でも、万能ではない

手術を受けて、補聴器から人工内耳になった私は、初めて人工内耳をつけたとき、「世界はこんなに音であふれていたんだな」と、色鮮やかに感じたことを今でも鮮明に覚えています。

世界が、広がったようでした。
今まで聞こえていなかった様々な音が一気に耳に入ってきたのです。

しかし、最初からそのたくさんの音が何を意味しているか理解できたわけではありません。
耳から聞こえる音と、それが「何の音」かという認識を、1つ1つ結び付ける作業が必要でした。

皆さんが生まれた時から自然に身につけていくことを、私は作業として行う必要があったのです。

よく母に、「これは何の音?」「これは?」と聞いていました。
そうして、ああ、この音はエアコンの音なんだ、という風に私の中の「音の辞書」を厚くして、人工内耳を自分のものにしていきました。

音の辞書が厚くなるにつれて、どんどん世界が広がって、輝いていきました。
ちなみに、今でもわからない音がたくさんあります。その度に、「この音は何の音?」と周りの人に確認しています。

ただ、人工内耳をつけていても、難しいことがあります。
それはスピーカーなど音源媒体を通した音が聞こえにくいということです。スピーカーを通した音は、音の輪郭が“ぼやけて”しまうのです。

「こんにちは」

例えば、「こんにちは」という人の声が、スピーカーを通すと

全ての文字がにじんでいる「こんにちは」

イメージとしては、こんなふうに輪郭や形がぼやけてしまうのです。

音としては聞こえていても、何を言っているのかが分かりにくいのです。そのため、TVには字幕が必須です。字幕がないと何を言っているのかほとんど理解できません。携帯電話は、普通に耳につけて聞くのではわからないので、人工内耳と直接コードで繋げて電話をしています。
それでも、全体の7割程度しかわかりません。

他にも、周りの音が大きい、ゲームセンターのようなところでの会話、大人数での会話が苦手です。音楽と人の声、あるいは人の声と声が、「重なって聞こえる」ため聞き取りづらいのです。

例えば、こんな感じです。

「きょうの授業だけど」「元気だった?」「こんにちは」の文字が同じ濃さで重なっている

何人かの声が混ざってしまって、区別できない状態。
でも、皆さんの脳はこんなふうに聴きたい音だけを抽出して周りの音は抑えています。

「きょうの授業だけど」だけがはっきり見えて、「元気だった?」「こんにちは」は薄い文字

いわゆるノイズキャンセリングを脳が自動でしているので、聞きたい人の声だけを聴くことができるのです。
しかし、私は機械が音を拾っているため、周りの音と聴きたい音が混ざってしまって区別しにくいのです。こんな風に「音が重なって聞こえる」ということを、イメージしていただけたでしょうか?

音が重なると聞き取れないことは、友達との雑談、授業での先生の言葉、仲間の発言など、ありとあらゆる場面で、私を大勢の中で「1人ぼっち」にさせました。

読唇は聞き取る上でとても重要なので、先生の口が見えるような席にしてもらい、黒板を向いて話すのはできるだけ避けてもらったり、生徒の発言は先生にもう一度繰り返してもらったりするお願いをしました。

人工内耳は私を最重度難聴から軽度難聴程度まで引き上げてくれた素晴らしいテクノロジーですが、万能ではありません。
たくさんの工夫を重ねてもなお、100%にまではなかなか達することはないのです。

人工内耳をつけているからといって、聞こえているからといって、決して健聴者と同等ではないことを、頭の片隅に置いてもらえると嬉しいです!



■思いもよらなかった、試練の連続

こうして、人工内耳をつけて工夫を重ねながら学生生活を送りました。

「聞こえないから仕方ないよ」「障害があるから…」という言葉を聞きたくなくて、そして元来の負けず嫌いな性格も相まって、勉強も、スポーツも努力をしてきました。

中学校では陸上部に入りました。種目は短距離で、100mや4×100mリレーなどです。
陸上の大会は雨でも行うのが基本ですが、人工内耳は機械なので水が大敵。つまり、雨が大敵なのです。

写真

こちらは高校の陸上部の時の写真

そんなとき、どうしていたのか…
100mの時はスタート合図のピストルの音を聞かないといけないので、お願いをして特別にスタート直前まで傘をさしていました。
ゴールにはタオルを持った部員に待っていてもらって、走り終わった瞬間に人工内耳を外してタオルで拭いていました。


中1の時には、父親が亡くなりました。
ずっと私がやりたいことはなんでも後押ししてくれました。その代わり、一度やりたいと言ったことは、責任をもって最後までやり遂げるように、と厳しくも愛のある教育方針でした。

私の行動力は、父親に鍛えられたといっても過言ではありません。
父が亡くなり、母はパートとして働いてはいましたが、家計は苦しくなりました。

障害があることによって(致し方ないのですが、人工内耳など)お金がかかっていることも事実なので、家計を少しでも助けられたら、と中学校の時から給付型の奨学金をもらうようになりました。

ちょうどこのころ、私はいじめにあっていました。
私の住む地域では、2つの小学校から1つの中学校に進学するのですが、小学校6年生のころから中学1年生まで、いじめられることになりました。

きっかけは、私が「なんでもできるから」だそうです。
私は、「聞こえないから」と差別されたり、あわれまれたりするのが嫌で、普通の人の何倍も、努力してきた自負があるのですが、それを理由にいじめられました。

その中には、ずっと仲の良かった子もいました。
私が話を聞いているときには読唇していることを知っていたので「口を隠して話したらわからなくなるよ」といじめっ子に言い、口を隠して悪口を言うようになりました。

私はますます「聞こえる人たち」との距離を感じるようになりました。


高校受験の時。家計は苦しいので、塾には通い続けることはできないと、期間限定の短い塾に通いました。

試験では、リスニングの壁が立ちはだかります。

スピーカーからの音を聞き取るリスニングは、たとえ日本語でも何を言っているのかわからないのです。
高校に、リスニングの免除・もしくは生の声なら聞き取りやすいので別室で先生に話していただけませんかとお願いをしたのですが、いずれも認められませんでした。

そのため、リスニングのない、合格人数は少ないけれど難易度も高い前期試験のようなものに受かる必要がありました。
落ちるわけにはいかない、と猛勉強をし、合格することができました。

高校でも、給付型の奨学金をもらい、少しだけ通っていた塾代も賄いました。

高校に入ってからも、スポーツと勉強で努力の日々です。陸上では、東海大会(ブロック大会)に進出することができました。
授業では基本的に小学校の頃から変わらず、席は前の方にしてもらって、先生にも新学期には説明をしました。わからないことはそのままにしておきたくない性分なので、授業後には積極的に先生に質問しに行ったりもしていました。
音楽の授業が選択制で、選ばなくてもよかったので(歌うことは好きなのですが、壊滅的に下手なのです笑)うれしかったです。

今、学生生活を振り返ると、わたしは「自ら“聞こえない”ことを発信して、周りを巻き込んでいく」ようにしていたのだと思いました。
聴覚障害は、ともすれば“隠せてしまう”障害です。でも私は、オープンにすることで自分だけでなく周りも「どう助けていいのか」「どこまで自分でできるのか」がわかって、「聴覚障害の佑季ちゃん」ではなく「佑季ちゃんはたまに聞き取れてない」というふうに接してくれていたのだと思います。

お願いする際にも、「こうしてもらうと聞きやすいです」など、具体的にやって欲しいことを説明する力もついたと思います。“見えない”障害なので、助け方も“見えない”からです。もちろん、一概には言い切れないけれど、こうしてもらうと私は実力を出せるんだ!という「方法のストック」を作れたことも、今の私を支えているのだと思います。

オープンにしなくとも誰しもに優しい社会が理想かもしれませんが、まだまだ障害の認知度が高くない今は、オープンにしていく姿勢と、周りを巻き込んで味方をたくさん作っていくことが一番大切なのだと、思っています。

“見えない”障害と共に歩んだ24年間(後編)に続く



【関連記事】知ってる?聴覚障害 【前編】人工内耳で聴く、ということ(2018/11/9) 

…人工内耳をつけながらの取材についてコラムにしました。

キーワード

後藤佑季
後藤佑季

後藤佑季(ごとう・ゆうき)

1996年7月30日生まれ 岐阜県出身 聴覚障害(人工内耳使用) 【趣味・特技】料理、カメラ、書道準五段、手話技能検定準2級 【スポーツ歴】陸上(100m走など短距離)、水泳、バドミントン 【抱負】私の聴覚障害(難聴)のような『目に見えない障害』の存在を伝え、様々な障害のある人とない人との橋渡し役になれたらと思っています。自分の身体ではないものを最大限に生かし、自らの可能性を広げる、超人たちの「常識を超える瞬間」を多くの方にお伝えしていきたいです!

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