パラ陸上・永田務 「諦めが悪く自分らしい“泥臭いレース”がしたい」 |後藤佑季

陸上 2021年4月22日
写真:リモートインタビュー中の後藤リポーター(左)と、永田選手(右)

2021年2月。
惜しまれながらも最後のレースとなった、歴史ある「びわ湖毎日マラソン」に、パラ選手の“新星”が出るらしい、と聞いて取材をさせていただいたのが、永田務(ながた・つとむ)選手、37歳。

腕に障害のあるT46のクラスで、マラソンでの東京大会出場を目指しています。

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2021年2月28日 びわ湖毎日マラソン終盤の永田選手

びわ湖毎日マラソンでは、世界ランキング2位相当の2時間25分23秒で走り、アジア記録を更新。
一挙に、メダル候補へと躍り出ました。

お話を聞くうちに、永田選手の障害やスポーツに対する姿勢に、これからの彼の変化を追いかけていきたいと思ったのですが、それはなぜなのか―。


■走ること、は自分にとって「なくてはならないもの」

新潟県村上市出身の永田選手。
ダイエット目的から、走ることを始めたのは小学5年生の頃。
次第に走るのが楽しくなり、中学生から本格的に陸上に打ち込み始めます。
高校3年生の2001年には、大学生や社会人も含めた県内の年間ランキング、男子1500メートルで上位に入るほど力をつけました。

写真:走る永田選手

箱根駅伝にも出場する関東の有力大学から誘われたものの、卒業後は地元の陸上自衛隊高田駐屯地へ入り、そこでも陸上を続けます。

その後、仕事はいくつか変わったものの、走ることはやめませんでした。

「高校から社会人に上がるとき、社会人で自衛隊を辞めたとき。ひとつひとつの節目で走ることを辞めるタイミングはあったかもしれないんですけど、その時々で、辞める理由がわからなかったんです。自分自身『まだまだいける』と昔から思っていて、『ここではやめられない、ここではやめられない』とずっと思ってきて、今に至ります」

辞める理由がわからないから走り続ける…永田選手らしさの一つ、と感じました。


■障害は「走ることを諦める理由」にはならなかった

永田選手が事故に遭ったのは、リサイクル工場に勤務していた2010年12月、26歳のとき。
機械に腕が巻き込まれ、開放骨折。また、その際に腕が引っ張られたことが原因で、首の神経を損傷し、まひが残りました。

計10回に及ぶ腕の手術で、入院生活は1年に。
ものをつまむことはできても握ることはできず、さらに、しびれが起きるため腕の可動域も狭い状態です。走るときには、右腕は「重りでしかない」といいます。

写真:鉛筆を持つような右手の形をしている永田選手

「つまむことはできても握れない」という右手。この形のままあまり動かないそう。

しかし、永田選手にとって、事故に遭ったことは走ることを諦める理由になリませんでした。

「(走ることをやめようとは)全く考えなかったですね。腕一本ぐらいなんで走ることには全く関係なくて、脚があれば走れると。あまり自分の障害を“障害”だと思ってないので、走るのをやめる理由には全くなりませんでした」

「障害を理由にタイムはこれぐらいだという(限界の)理由付けをするようなら、この先も伸びないし、やっててそれって楽しいの?と思ってしまうので…どんな状態であれ挑戦する事が大切だと思いますし、右が振れないなら左で振ればいいじゃんとか、どっちかがダメだったら他で頑張れ!って思います。

自分の走りを、障害者っていう理由“だけ”で見られる(注目される)のは、自分としては、まだそれ“だけ”の記録でしか走ることができてないからだ、と受け止めているので、まだまだ頑張らなきゃと思っています」


写真:リモート打ち合わせ中の永田選手

「けがをして、走れなくなったときに、走力があまりにも落ちて小学生レベルだなって思ったんですね。小学生のレベルであれば、またレベルを上げていけば中学生、高校生、社会人大人のレベルになって、その頃のように一からやり直せばまた行けるんじゃないかって思ったんです。自分自身、幼少期は速いわけでもないですし、ただダイエットで走り出して、痩せて、徐々に走ることを身につけていったというレベルなので、またあのころを繰り返せばまた走れるだろうって」


写真:トラック脇のベンチに座り、曲がった右手で右太ももを触る永田選手

「腕の手術をするときに、両脚の付け根とか、移植手術でだいぶ広範囲に切って、いろいろ突っ張ったり、感覚がなくなったりという経験をしました。でも、それがあったとしても、また練習していけばいけるだろうと思って。

マイナスであっても練習をずっと頑張れば、いつしかゼロになって、またプラス1、2、3、4 って階段を登っていくかのように、レベルをあげていけるんじゃないかなって。誰かと戦うじゃなくて、自分と戦うんだ。階段を上っていくのを楽しみにやっていこうと。今までやれていたことがやれないことに対しては、むなしさの感情はありましたけど、何より走り出せたことの方が自分は幸せだったんですよね(笑)」


■ウルトラマラソン日本代表から、パラへ

走ることを諦めなかった永田選手は、復帰後、けがをする直前から取り組み始めていたウルトラマラソン(フルマラソン(42.195km)以上の超長距離走。100km走や24時間走などがある)の世界に本格的に足を踏み入れます。
それは、トラックに復帰したいと思ってはいたものの、けがの影響もあって昔のようにスピードを出して走ることはできなかったからでした。

自分に残されたものは何かと考えたとき、長い距離を走ることが苦じゃない自分の性格を生かそうと考えたのです。
「始めるからには目標を持ちたい」と、日本代表になることを目標に掲げました。
そうしてウルトラマラソンを走っているうちに、「走ることの楽しさ」を改めて再認識したといいます。

写真:トラックを走る永田選手

「(走ることは続けられたのですが)それまで、モチベーションがところどころで切れちゃってるんですよ。目標がある時は本当に燃えていけるんですけど、目標を失った時の立て直しが自分は本当に難しくて。2008年ぐらいに自衛隊を辞めて、けがをするまでの間、本当にただ走ってるだけって感じで『何のために走ったらいいのかな』って思う時もありました。でも、節目節目で何とか目標が現れてくれるんです」

「けがをする直前の2010年の6月、10月ぐらいにウルトラ(マラソン)という存在を知って『その世界で行こう』と思った矢先にけがをしました。でも、そこでまた目標が立てられて、15年の世界選手権で日本代表になりました。でも、大会が終わった途端に自分の中でまた『次、何のために走ればいいのかな』って目標がなんかぼやけて、ここ数年は自分で目標を立てたようで、集中してやりきれてなかったんですね。

2019年の4月に、(東京から)新潟に帰ってきて、その頃には『一旦競技と離れて、家族とまた基盤を作りながら生活していこう』と思った矢先に、またパラリンピックに出会えました。なので、もうダメかなって思った時に運よく新たな目標が、その時その時に『続けたい』と思う理由が生まれてくるので、今でも続けられているのだと思います」


次なる新しい目標は、パラリンピックの出場かと思いきや、「パラリンピック」よりも、記録。現在T46クラスで世界ランキング1位に位置するロジャー・マイケル選手(アメリカ)の持つ2時間19分33秒だといいます。

19分台の記録になると東京マラソンのエリート選手枠に入ることができ、ステージがまた一段上がると考えているからです。

「ステージが変われば、またランニングが楽しくなると思ってます。だから、パラリンピックに出たい、出るための今という形よりは、その選手と対等に戦いたいとか、大会云々じゃなくてそのステージに、レベルに自分を持って行きたいっていうモチベーションが、今の自分の気持ちを高めてくれています」

写真:囲みインタビューに答える永田選手

それでも、東京大会で伝えられることがあるはず、と話す永田選手。

「私のように、途中でけがをして障害を負ったり、先天的な障害の人もいたりする中で、パラリンピックにこれから向かおうとしている私自身は、自分を“障害者”だと思っていないんですね。

認定を受けているので“障害”はありますが、この腕で自分が競技で不利になったかというと、そうは思っていなくて、ただ単に自分が遅い、弱いだけで。この障害があるから弱いのではなくて、“今の自分だから表現できる場面”があると思います。そういう、障害者の強さじゃないですけど、すごさを、私を通して他の選手を見てくれたり、興味持ってくれたりするきっかけになれたらと思っています」


そんな永田選手の支えとなっているのが、“明るい”と話す奥様と、10か月になる娘の一華(いちか)ちゃんの存在です。

「娘が一日一日やれることが増えて、変化がすごく出てきてるんです。例えば、自分が合宿に行く前は言葉を話していなかったのに、今ではいろいろしゃべる状態で。そういった変化を間近で見られなくて、一日一日がもったいないと思う気持ちをあえて力にしてます。その時間を自分は捨ててでも合宿に来ているから、しっかりやらなきゃなと」

写真:リモートインタビュー中、笑顔の永田選手

「今は、本当に楽しいんです。自分自身の変化を感じられて、またやれることが、まだこんなに…。もちろん自衛隊時代にはもっと出来たっていうのはありますけど、でもここ数年を考えたら、まだこんなに出来るじゃんとか、自分の可能性を見ることができているので、本当に今、楽しいですね」


自分のことを「諦めが悪いんです」と話す永田選手。
それは、東京大会へ向けての意気込みにも現れていました。

「(真夏の東京でのマラソンについて)自分の願いとしては、すごく暑くなって、湿度が高くなって、みんなが嫌がるような気象条件になってくれたらうれしいです。泥臭いレースの方が自分は大好きなんです。あまり気持ちよく走ったことがないので、苦しんで何ぼだと思っています。

なので、見てる方や他の参加者の方は嫌かもしれないですけど、自分は “ゾンビ”のようなレースがしたいですね」

・・・

一方で、課題はメンタルだと話していた永田選手。
注目されることが、知らず知らずのうちにプレッシャーとなり、体の不調として現れてしまっているといいます。
4月からは、メンタルコーチもつけて、新たな目標に向かって走り始めるそうです。

永田選手は幼少期から、「成功した、という経験がない」、「2番という記憶しかない」と話していましたが、だからこそ“諦めが悪く”、何度も何度も走ることができるのだと思いました。

パラリンピック出場、というステータスではなく、自分が決めた自分なりの目標に「勝つ」ことにとことん執着し努力していく、そんな永田選手が躍動する姿は、きっとこれまでとは違った「障害者像」を感じさせてくれるのではないか、そう予感させてくれました。

後藤佑季

後藤佑季(ごとう・ゆうき)

1996年7月30日生まれ 岐阜県出身 聴覚障害(人工内耳使用) 【趣味・特技】料理、カメラ、書道準五段、手話技能検定準2級 【スポーツ歴】陸上(100m走など短距離)、水泳、バドミントン 【抱負】私の聴覚障害(難聴)のような『目に見えない障害』の存在を伝え、様々な障害のある人とない人との橋渡し役になれたらと思っています。自分の身体ではないものを最大限に生かし、自らの可能性を広げる、超人たちの「常識を超える瞬間」を多くの方にお伝えしていきたいです!

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