「障害を受け入れることは、諦めることではない」パラ陸上 アナニアス・シコンゴ ―シリーズ「レジリエンス」vol.1・後藤佑季

陸上 2021年5月14日
写真:2016年リオパラリンピック 陸上男子200m(T11)決勝 ゴールを迎えるシコンゴ選手

「パラアスリートたちは、その人生でもって、人間の力強さを伝えてくれる―」

彼らにとって障害は決して克服した(乗り越えた)ものではなく、時には向き合い、時には諦め、時には受け入れて生きてきたもの。

そんな彼らがもっているパワーを、「乗り越えてきた」という一言ではなく、「レジリエンス=折れない心」という言葉で表現できるのではないか。

そう考えた私は、“TOKYO”を目指している世界のパラアスリートたちの「レジリエンス」を取材し始めました。



Vol.1  アナニアス・シコンゴ
/Ananias Shikongo(ナミビア・パラ陸上T11 100m/200m/400m)

写真:リモートインタビューをする後藤リポーター(左)と、モニターのシコンゴ選手(右)

インタビューを通じて、シコンゴ選手の「強い意志」は自身の経験からなのだと感じました

「障害を受け入れることは、諦めることではない―」
そう話すのは、ナミビアでオリンピック・パラリンピックを通じて男子選手として初めて金メダルを獲得という偉業を成し遂げた、アナニアス・シコンゴ選手、34歳。
リオパラリンピック、男子200m・T11(全盲のクラス)でパラリンピック記録を更新して優勝しました。

彼が生まれたのは、首都ウィントフックから北へ600km離れた農村です。
「電気も水道もなく、生活用水は井戸水に頼っていた。牛やヤギなど家畜を飼育しながら生活し、移動手段はロバ。自給自足の貧しい生活を送っていました」と話します。

写真:トラックを一人走るシコンゴ選手
写真:スパイクの靴ひもを結ぶシコンゴ選手

今年2月、首都ウィントフックの陸上競技場でのシコンゴ選手。両眼は光も全く感じないが、練習や日常生活のほとんどは感覚を頼りに一人で行う

そんな彼に、次々と不運が襲います。
1度目は、4歳の時。兄が弓矢で鳥を射っていた時、その弓矢が左目に刺さったのです。村の人総出で、病院のある町まで彼を連れていきましたが、治療の甲斐なく失明します。
さらに7歳の時、飼っていたロバを小さな棒で叩きながら移動させていたとき、顔面を突然蹴られました。

「右目を触った時、(前みたいに)目玉が飛び出ていなかったから、大丈夫だ、と思いました。翌日起きたら、また右目で見られるようになる、と」

しかし、右目も失明。最初の頃は落ち込んだと言います。

「兄弟が走り回って野生動物を追いかけたり、家畜の世話をしたりしているのに、なぜ自分だけ家にいなければいけないのか。差別されていると感じました。両親からも、自分はもう家から出られず、このまま人生が終わると思われていました」

写真:屋外でインタビューに答えるシコンゴ選手

兄弟がガイド役になりながら、徐々に村の中を歩き回るようになったシコンゴ選手。
9歳の時、転機が訪れます。ポリオの予防接種で村に来た保健省の担当職員から、視覚障害者用の職業訓練センターを紹介されました。
ただ、そこは大人向けの施設だったため、1年後に別の特別支援学校を紹介されて入学します。
当時、ナミビアでは特別支援学校は全国に数校しかなく、その1つが村から80km離れたところにあったので、実家を出て寄宿舎に住むことになりました。

この環境に身を置くことで、シコンゴ選手は「目が見えない子どもは自分だけではない」ということ、そして「障害は限界を課すものではなく、チャレンジする機会を与えてくれるもの」だと気づいたと言います。
さらに体育の授業で、“かけっこ”に出会います。最初は、競走の賞品の冷たい飲み物やお菓子が目的だったそうですが、徐々に「自分の才能」に気がつきました。

「かけっこで勝っていくうちに、みんなとの競争が楽しくなってきました。自分には速く走る才能がある、走ることで人生が変わるのだと気がついたのです」

写真:伴走者とトラックを走るシコンゴ選手

その後コーチと一緒に練習に励んだシコンゴ選手。
めきめきと力をつけ、18歳(2004年)の時にはアフリカ選手権に出場するまでになりました。
コーチからも、「たとえ盲目でも国で有名になれると示せるだけの才能がある」と励まされ続けたと言います。

国際大会に出場し、いくらかの報奨金を生活の足しにしていたそうですが、貧しさからは抜け出せずにいました。
住まいはトタン作りの家。十分に食べ物がなく、お腹を空かしたまま練習に取り組んだことや、競技場までの道のりを2時間歩いたことも多々あったと言います。

25歳の時に出場したアフリカ選手権で、隣国アンゴラの英雄、オクタビオ・ドスサントス選手と出会ったことで、シコンゴ選手の目標はパラリンピックになりました。
ドスサントス選手から、「北京大会でメダルを取って自立した生活が送れるようになった」と聞いたのです。

「彼のように世界のトップアスリートになりたいと思って、猛練習を重ねました。僕の目標はナミビアに金メダルをもたらすことだと思ったんです」

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首都ウィントフック郊外のこの道端で、シコンゴ選手はここ数年、生活必需品を売る“屋台”のような店を経営し、生計を立てていたが、新型コロナ感染拡大によって止めるざるを得なかったという

シコンゴ選手は2012年、ロンドンパラリンピックに出場を果たしますが、けがで成績は振るいませんでした。ですが、そこから週6日、コーチや、レースを並走するガイドランナーと一緒に練習を続け、2015年のアフリカ選手権で優勝し、2016年のリオデジャネイロパラリンピックに出場。200mのレースでは、パラリンピックレコードでの金メダルを獲得しました。
帰国後は、オリ・パラ通じて、ナミビア初の男子金メダリストとして国中から大きな祝福を受け、国やスポンサーからの支援も集まりました。
ナミビア中央銀行から、家族や親戚と住むための新しいレンガ作りの家をプレゼントされたのです。

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シコンゴ選手の自宅。リオ大会後にナミビア中央銀行から贈られた

そんな彼は現在34歳。短距離ランナーとしては若くはありません。
さらに、コロナウイルスの影響で、家業が傾き収入が減った一方、練習拠点もいくつか使えなくなりました。

しかし、シコンゴ選手は東京大会への出場を諦めることはありません。
パラリンピックを目指す若い選手たちとともにトレーニングを続けています。

「私が走ることをやめると、ナミビアの人たちはパラリンピックへの興味を失います。私たちは今はアスリートですが、次の世代へ導く役割もあるのです」

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息子のイサックくんは、ガイドランナーをやってみたいと将来の希望を教えてくれた

シコンゴ選手は今、パラスポーツの若い世代への普及を支援する財団をオランダのNPOと設立。練習のサポートや大会への参加費用を支援するほか、若いガイドランナーの育成もしていると言います。

「恵まれた環境でなくとも、与えられたチャンスを掴み、生かせば、夢は叶う。私たち障害者は多くの試練を経験します。試練のおかげで強くなり、全てが可能に思えるのです。ゴールを目指して多くの困難を乗り越えることで、レジリエンスが身についていくんです」

・・・

シコンゴ選手はインタビューの中で、何度も「Challenge=試練」という言葉と、「Adapt=柔軟に適合させる」という言葉を繰り返し語っていました。
貧困と障害。どんな試練に出会っても、しなやかで諦めない心を人生の中で身につけていったシコンゴ選手は、まさに“レジリエンス”というパワーを私たちに教えてくれていると感じました。

(取材協力)Sport on the Move Foundation、Ina Wilkie、Namib Film、鈴木祐子


今を切り開く力 ―パラアスリートがもつレジリエンス

vol.1「障害を受け入れることは、諦めることではない」陸上 アナニアス・シコンゴ 

vol.2「道は1つではなく、ほかにも選択肢がある」 卓球 ジェシー・チェン

vol.3「自分の限界は、自分が決める」陸上 マルクス・レーム
vol.4「違っていることは、全てかっこいい!」車いすフェンシング ベアトリーチェ・ビオ
vol.5「やってみれば、何でもできる」パラ陸上 ヨハネス・フロアス

キーワード

後藤佑季 レジリエンス(今を切り開く力)
後藤佑季

後藤佑季(ごとう・ゆうき)

1996年7月30日生まれ 岐阜県出身 聴覚障害(人工内耳使用) 【趣味・特技】料理、カメラ、書道準五段、手話技能検定準2級 【スポーツ歴】陸上(100m走など短距離)、水泳、バドミントン 【抱負】私の聴覚障害(難聴)のような『目に見えない障害』の存在を伝え、様々な障害のある人とない人との橋渡し役になれたらと思っています。自分の身体ではないものを最大限に生かし、自らの可能性を広げる、超人たちの「常識を超える瞬間」を多くの方にお伝えしていきたいです!

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