「先生」のTOKYOまでの軌跡、そしてこれから ―パラ陸上・伊藤智也選手― | 後藤佑季

陸上 2021年9月28日
写真:伊藤智也選手

あっという間で、そして長い道のりの末にたどり着いた、そんなパラリンピックが終わりました。
今回はずっと取材をさせていただいてきた、「先生」こと、パラ陸上・車いすクラスの伊藤智也選手についてお伝えします。(過去の記事もぜひ。2019年2021年

「先生」と呼んでいるのは、私がリポーターに採用された直後の研修に、講師としておいでいただいたからです。その時は引退されていて、元選手の立場からパラスポーツを取材する心構えなどをお話しいただきました。

その後、競技に復帰されて、大会では取材する側とされる側に。でも会うたびに「ズバッと聞かないかんで!」「質問上手くなったな!」と言っていただく、そんな「先生」だったんです。

東京大会の出場権を得た2019年の世界選手権では、出場種目全てでメダルに絡み、(本人曰く)「中年の星」として輝いて見せてくださいました。


■TOKYOで花火を打ち上げる


58歳で迎えた東京パラリンピック。
「これまでにないくらい、たくさんの方たちの応援を得て、臨むんだ」と話していた伊藤選手。

去年の11月には、持病の多発性硬化症が再発。左手の障害がさらに重くなった、といいます。

2年ほど前からは、東京でのメダル獲得を目指して、同じT52クラスの50歳、上与那原寛和選手と練習を重ねてきました。上与那原選手が沖縄ということもあって、自分たちを「チームシーサー」と呼んでいました。チームとして戦略を立てながら臨もうとしていたのです。

8月初め、伊藤選手の地元の三重県鈴鹿市で練習中のお二人を取材させていただきました。

写真:真剣な表情で話す二人

作戦会議中の伊藤選手(右)と上与那原選手(左)を撮らせていただきました。
失礼ながら、まさに50代コンビという感じですが…


写真:伊藤選手は黒、上与那原選手は赤をメインカラーにした姿

どうですか、この姿!
若いエンジニアたちと開発した車いすレーサーに乗る伊藤選手(右)と、「赤だと思って頼んだら、ピンクのレーサーが届いた」という上与那原選手(左)。仕上がりはとても順調だと話してくださいました。


写真:シーサーのように手をまげてポーズをとる二人

チームシーサーのポーズ!

伊藤選手は、出場予定の3種目のうち、特に400mは一番自信があるとのこと。
東京大会の目標についてお聞きすると「でっかい花火を打ち上げたる」という答え!
その言葉通り、きっと大きな成果を上げられるんだろうなと、その時の練習を見ながら思っていました。

そして、8月24日の開会式の開会式当日、いよいよパラリンピックが始まるという時。
ショックなニュースを目にしました。

―伊藤選手がクラス分けによって、1つ軽いクラスになった―というものでした。

驚きました、と送ったメッセージに伊藤選手から返ってきたのは、
「俺もびっくりした!でも、人生にとってはほんの1ページや。次のページにどんな物語があるのか、楽しみしかない。ええ仕事しまっせ!」というものでした。

そもそもクラス分けは、海外で受けなければならない仕組み。免疫系の難病があるため、コロナ禍で半年以上も自宅から出ない生活をしていた伊藤選手は、命か、パラリンピック出場のためのクラス分けか、という選択に迫られ、クラス分けを受けることが難しかったのです。
救済措置として大会直前にクラス分けが実施され、伊藤選手を含む、クラスが未確定だった116選手がこれを受けました。

写真:記者会見に答える伊藤選手

8月24日、開会式の7時間前に行われた記者会見

T52からT53へ。メダル候補から、一転、参加標準記録すら切っていない状況になったのです。記者会見では「小学生と高校生が競うようなもの」と表現しました。伊藤選手はクラス分けの競技観察のために、特例措置として、T53の400mに出場することになりました。
「諦めが悪いんです。スタートラインに立てることがアスリートとしては幸せです」と伊藤選手らしい前を向くコメントでした。


■「スタートラインに立てる幸せ」をかみしめて


―東京大会、国立競技場。
陸上初日の9月27日の男子400m・T52、日本勢のメダルの期待がかかる種目に、伊藤選手の姿は、やはりありませんでした。

このレースで、伊藤選手と一緒に練習を重ね、一緒に表彰台に上ることを夢見ていた、上与那原選手が銅メダルを獲得。
直後のインタビューで口にしたのは、同じ舞台に立つことができなかった伊藤選手のこと。

お二人が練習されていたところを見て、生き生きと本番のレースのことを話す様子を見ていた私は、それまでの過程を思うと、上与那原選手のその言葉に、涙が止まりませんでした。
メダルを獲得してなお、出てくるのは、うれしさよりも、伊藤選手への思いだったのです。

写真

男子400m・T53予選2組 4レーンでスタートを待つ伊藤智也選手

そして、2日後の9月27日、迎えた伊藤選手の走る男子400mのT53クラス。
スタートラインについた伊藤選手は、前を見つめ、今にも「やったるで!いい仕事しまっせ!」という声が聞こえそうな、そんな表情でした。
その姿に、これまでの歩みで得たものを、想像していたのとは違う場所ですが、出しきってやろうという、折れても折れても立ち上がり続ける伊藤選手の強さを感じました。


写真

先生の走り、ちゃんとこの目に焼き付けます―。
そんな思いで見つめた400mでした。

写真

ホームストレートでのラストスパート

結果は、自己ベストを上回る57秒16のタイム、7位でのフィニッシュでした。

写真:口を開けてやり切った表情の伊藤選手

走り終えた伊藤選手のインタビューを、私は同じ競技場内の特設スタジオで、画面越しに見ていました。
そこで出てきた言葉たちに、伊藤選手「らしさ」が詰まっていると感じます。全文をぜひお読みください。

Q:57秒16、自己ベストですね。

伊藤選手:
57秒!ダメだこりゃ!(笑)

Q:まず、ご自身のパフォーマンスとしてはいかがですか?

伊藤選手:
ビリになることは分かってはいたものの、今までの習性ですかね、人が前に行くと、絶対に追ったる!と思って、バックストレートで追ったら、ホームストレートで死んでしまいました。

Q:このクラスでの戦いになりました。おそらく、スタートにつくまでもいろんなお気持ちがあったと思いますが。どんな気持ちでスタートラインにつきましたか?

伊藤選手:
僕、4大会目になりますけどね、こんなにね、自分の走るということに関して、多くの人に関わっていただいたり、この大会に出場できることにね、祝福していただいた大会は、今回が初めてやったので、ただ、クラス分けが53に決まった時に、もう走れないのではないかと、いう不安が一番大きかったですけどね。何はともあれ、スタートラインに立てて、タイムは思っていたタイムとは全然違いますけど、とりあえずフィニッシュラインを超えることができたなあと、いうのが、一安心しています。

Q:競技の場に戻ってきて、東京を走りました。この挑戦はどうだったでしょうか?

伊藤選手:
5年間、ほんとに…1人で戦ってこなかったという実感。やっぱりこのマシンを全力で開発製造してくれたね、メーカーや若いエンジニアたち。今回は世界最高峰のベアリングも開発していただいたエンジニアの皆さんと。こんなジジイでもね、うちのチームで走れと言ってくれた所属先、そして応援してくれたみんなの気持ち。もうね、そういったことの方がうれしくて、スタートラインに立った時は。絶対、勝ったる!思って立ちました。

Q:お疲れ様でした。

伊藤選手:
ありがとうございました!


そして、そのあとのインタビューエリアでこうも話していました。

「僕の中で1本の指に入る、最高のレースだったと思います。競争する人間は、スタートラインに立てることが何よりうれしいので、スタートラインに立ったという証は、きっとこれから先の僕の人生に大きく、プラスに作用してくれると思います。まだまだ、次のページへ、次のページへと、ぐいぐい進めていきたいです」

振り返ってのインタビューでは、

「満員の観客の中に自分と関わってくれた人がくっきりと見えるような、そんな風景がずっとスタートからゴールまで僕の目の前にあったような。それをずっと追っかけて走ったような気がします。
みんなの笑い声笑い顔、僕の前にぶら下げるにんじんみたいに、それを追っかけているうちに400が終わってしまった。彼らがまた最後に導いてくれたのかもしれないですね」

伊藤選手が語る、感謝、感謝、感謝の思い。
それは、何より「チーム」で臨むんだ、と常に話していた伊藤選手の精神が表れていました。
「先生」は、ずっと先生だなと思った言葉たちでした。


その日の午後に行われた、T52クラスの男子1500m。
チームシーサーで戦略を立て、準備を重ねてきた舞台に、上与那原選手がひとり挑み、今大会2個目の銅メダルを獲得しました。本当にすごいです!



写真:国旗を背に持った上与那原選手

レース直後のインタビュー、上与那原選手はこらえきれない涙とともに、再び伊藤選手への思いを口にしました。

「戦略としては日の丸3つですよね…本当はこの思いでたくさんトレーニングをしてきましたし、切磋琢磨して、この舞台で一緒に戦うはずだったんですけど…今回はこのような形になり、複雑ではあるんですけれど、2つはあげられて、またいつになるかわからないですけれど、チーム伊藤になるのですが、そこでいつでも(勝負の舞台に)上がれるように準備はしていきたいと思います」

スタジオで聞いていたのですが、私だけでなく、周りのスタッフも、みんなが涙してこのインタビューを聞いていました。

この晩のSNSには、伊藤選手、そして上与那原選手へのメッセージがあふれていました。
2人からの力強いメッセージは、多くの人に届いたんだなあと感じました。


■そして、これから―


伊藤選手が選手村から退村する日。
午前中の放送がなかった私は、伊藤選手の声を聞くために、向かいました。

放送中は特設スタジオから動けないため、直接お話はできていませんでした。

伊藤選手が門から出てきたとき、待っていた子供たちが「伊藤選手だ!サインください!」と、大人気!
それにうれしそうに応える伊藤選手と子どもたちを見て、今回のパラリンピックで伊藤選手が伝えたかったことは、思っていた舞台ではなかったかもしれないけど、多くの人に、子供たちに、伝わったんだなと感じました。

写真:涙をぬぐう後藤リポーター(左)と、それを見ている伊藤選手(右)

そして、「泣かないでおこう、笑顔でいよう」と決めていたのに、伊藤選手に会った瞬間、涙が止まりませんでした。私があまりに号泣するので、伊藤選手の目にも涙…?が見えたような。(気のせいだったら、先生、ごめんなさい!)

「後藤ちゃん、放送でいろいろコメントを挟んでくれてありがとうね。顔が立ちましたよ!(上与那原選手と)2人でね、2年間、切さたく磨したので。これからはあいつ鍛えることに集中できる。もう鈴鹿には行きません!と言われたわ(笑)もう一踏ん張り、がんばります。上与那原を世界の一番高いところにあげてやりたいからな」

「最後のひと花というのは、50歳以上のためにある言葉。40歳代ではまだまだや。いい思い出になりました。まだまだ戦える準備が、心の中には整いつつあるんで。トラックではないかもしれないけど。いろんな意味で頑張りますよ!」

・・・

 そして、パラリンピックが閉幕を迎えるころ、伊藤選手は地元三重県で再び走り始めていました。選手として、なのか、コーチ(練習パートナー)として、なのか、まだ決まっていない状態で、目的なく鍛えているのは変な気分、と話しながらも、それでも走り続けるのは、「簡単には諦められない僕の心」があるからだといいます。

「人生を止めたくないので。あきらめへんよ、俺。あきらめたら、終わりやん。チャレンジしていないと、心が持たんのや。支えてくれてる人たちの心まで壊してしまいそうやもん。積み上げてきたものを生かそうと思うと、止まらない、という勇気も必要やと思うねん。ほんまに、この心があきらめてくれたらどんだけ楽かと思うわ!笑」


止まらない勇気、走り続ける人生―
伊藤選手はこれからも、私の先生であり、取材し続ける選手であることは変わらないのだと思います。


【関連動画】伊藤智也 大会直前のクラス分け変更を乗り越え 自己ベスト更新 | 男子400m T53(車いす) 予選 (2021年8月29日)


キーワード

後藤佑季
後藤佑季

後藤佑季(ごとう・ゆうき)

1996年7月30日生まれ 岐阜県出身 聴覚障がい(人工内耳使用) 【趣味・特技】料理、カメラ、書道準五段、手話技能検定準2級 【スポーツ歴】陸上(100m走など短距離)、水泳、バドミントン 【抱負】私の聴覚障がい(難聴)のような『目に見えない障がい』の存在を伝え、様々な障がいのある人とない人との橋渡し役になれたらと思っています。自分の身体ではないものを最大限に生かし、自らの可能性を広げる、超人たちの「常識を超える瞬間」を多くの方にお伝えしていきたいです!

おすすめの記事