第34回 島川慎一(車いすラグビー)「大成功のロンドンを超えて」

車いすラグビー 2019年10月9日
写真:島川慎一

「2020年東京オリンピック・パラリンピック開催の決定が、進化のきっかけになった」。

パラリンピックに携わるアスリートや関係者から、たびたび聞くキーワードだ。「パラリンピックとしては史上最高の大会」と言われるロンドン大会が閉幕して1年後の2013年、東京開催決定のニュースが日本中を駆け巡った。

東京大会開催決定以前と、それ以降と。その変化を、競技の成長と進化を見つめ続けてきたキーパーソンに話を聞いてみようと思う。

その1回目となるのは、車いすラグビーの島川慎一。日本代表が最初にパラリンピックに出場した2004年のアテネ大会から16年リオまで4大会に連続出場し、東京大会を目指すチームの最先端を突っ走る。

「大きく言えば、日本全体の意識が変わりました」。


■“代表ド初心者”からスタート

写真:島川慎一

島川慎一、1975年熊本県生まれ。東京大会を45歳で迎える。96年、トラック運転中に事故に遭い、頸髄を損傷して四肢にまひが残った。そもそもスポーツなんて汗臭いことは嫌い、連帯だの、チームワークだのを押し付けられる団体競技は、サッカーや野球といった人気スポーツでさえ見向きもしなかった。事故後、体を動かすという程度に、車いすの陸上競技には取り組んでいたが、友人に誘われて体育館で見た車いすラグビーの激しさに心を揺さぶられた。

「車いすを思い切りぶつけていいんだ!」

96年は、車いすラグビーがアトランタパラリンピックで公開競技として紹介された年。アトランタ大会終了後に、日本にも車いすラグビーがやってきた。日本で産声をあげたばかりの車いすラグビーに、島川はノックアウトされたのだった。

始めた当初の島川には、「パラリンピック」という概念さえなかったという。99年、第1回日本選手権に出場し、強化指定選手として召集される。とは言え、ほとんど活動のないまま2001年にオセアニアゾーン(現アジア・オセアニア)選手権に出場。

「この頃に、やっと国を代表するということを初めて意識するようになりました。そんな“代表ド初心者”でも、“負ける”ということがただただ、悔しかった」と、当時を振り返る。負けるのは嫌だ、だから、どんな練習にも取り組む。それだけだった。

写真:ボールを追う島川

2004年アテネパラリンピック 島川(右)

車いすラグビーは2000年のシドニー大会からパラリンピック正式競技となった。日本が出場したのは、04年のアテネ大会が最初である。島川は日本のエースとしてアテネ大会に出場し、大会の最多得点選手となった。それでも、日本は最下位の8位。

「アテネに入ってから選手のクラス分けが突然変更になるなどでコートに入ったのは初めてみたいなラインナップ。僕にとっては“行っただけ”の大会でした」。

しかし、島川の活躍は確実に海外選手の知るところとなる。帰国後、アメリカの選手から「アメリカのリーグで一緒にプレーしないか」というラブコールを受けた。新しいチーム<ブリッツ>を立ち上げたばかり。仕事もある。それでも、「今行かなければ、いつやる?」という自分の心に従った。仕事を辞め、アパートも引き払い、退路を絶って単身渡米。アリゾナにある<フェニックス・ヒート>で1シーズン、車いすラグビーに没頭した。チームはリーグ優勝を果たし、ニッポンからやってきた島川が外国人初となるアスリート・オブ・ザ・イヤーを獲得したのだった。


■ないないづくしの中で

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2008年 北京パラリンピック 島川(中央)

アメリカから凱旋した島川擁する日本チームは、その後08年の北京パラリンピックで8か国中7位に順位を上げた。

「でも、実際には、自分も日本チームにしても、北京の頃がどん底、限界だったと思う」
合宿でも海外遠征でも、選手はみな休職し、自腹を切って参加していた。
「借金まみれですよ。選手はまだまだリハビリ、楽しみの延長という感じでしたし」

アメリカでは、チームがいつでも練習できる体育館が近くにあり、毎週末のようにリーグ戦が行われる。仕事をしていても、体育館に集まる選手はいつも闘志をむき出しにしていた。あの、ヒリヒリするような空気は日本にはない。

順位を上げても失意の中にいた島川は、北京大会の会場で、アテネ大会でアメリカのヘッドコーチを務めていたケビン・オアー氏に遭遇する。パラリンピックだけでなく、島川が滞米中にライバルチームのコーチとして、何度も試合会場で顔を合わせていた人物だ。オアー氏は、北京大会では車いすラグビーではなく陸上競技のコーチとして現地に来ていたという。

「ケビン、お願いがあります。ぜひ日本に来て、日本チームのコーチをやってもらえませんか」

もちろん、実際に招へいするための具体的な策があったわけでも、競技団体の代表として話をしたわけでもない。ただただ、島川の心の叫びだった。

「日本チームが世界に太刀打ちできるようになるためには、どうしても大きな変革が必要だった。その1つが、アテネパラでアメリカを銅メダルに導いたケビンの手腕だと思っていたんです」

資金もない、環境もない。ないないづくしの中で島川は途方にくれていた。


■車いすラグビーの面白さを再発見

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2012年 ロンドンパラリンピック 島川(右)


2011年、島川は車いすラグビー選手としては初めてアスリート雇用による就労を実現させた。

「前年の10年に、日本は初めて世界選手権で銅メダルを獲得した。それが後押しとなって現在所属している企業を紹介してもらったんです」

ゴトリ、と石が動き始めた。

メダル獲得を目指して乗り込んだ2012年のロンドンパラリンピック。島川自身はその8か月前に右手に大きなケガを負ってしまう。このアクシデントによって、思うように練習ができないまま大会を迎えた。日本は3位決定戦でアメリカに敗れ、4位に。

「引退」の2文字がちらついた。

「辞めなかったのは、4位に終わったから」
ケガもなくメダルを取れていたら、満足してそこで辞めていたかもしれない。あるいは、自分が出場しなくてもメダルを獲得していれば、もう自分は日本に必要ないと思ったかもしれない。

帰国直後、海外チームを招へいしてジャパンパラ競技大会が行われた。島川は日本のBチームでプレーした。

「いわば、2軍です。でも、すごく楽しかった。新しい選手の成長がコートの中で見えたり、こんなメンバーだったらこう戦えるなということを感じられたり。メンバーによって戦い方がこんなにも変わることを実感して」

最前線で戦う立場から距離を置き、のびのびとプレーする中で車いすラグビーの面白さを再確認できたという。

「2年後、2014年の世界選手権まで、もう少しやってみよう」
新しいエネルギーが湧き上がるのを感じられたのだった。


■人の心に残るのはパラリンピック

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2016年 リオデジャネイロパラリンピック

そうして、2013年に東京パラリンピック開催が決定。その後、選手のほとんどは島川同様、競技に専念できる経済的基盤を持ち、パラアリーナなどの施設も完備されて、毎日練習ができるようになった。公的な助成金のほか、日本チームを支援する企業が増えた。

報道の扱い方も変わった。12年前のアテネは、新聞やテレビでも小さく結果が出る程度だったが、16年のリオパラリンピックは試合がテレビで中継された。

「雇用形態が変わり、環境が変わり、人の意識が変わった。日本を背負うプレッシャーを、しっかり感じるようになったわけです」

リオ大会以降、島川が切望していたオアー氏が日本のヘッドコーチに就任。また、島川に続いてアメリカに武者修行に出る選手も続出している。日本チームの強化は加速した。18年、日本は世界選手権で優勝し、来年、東京パラリピックを迎える。


島川にとって最も印象に残るパラリンピックはと水を向けると、
「ロンドン!」
と、即答された。引退がちらついていた時期にもかかわらず、である。

「自分の状況や、日本チームの結果とは関係なく、パラリンピックとしての成功をすごく感じられた。イギリスが出場していない僕ら日本戦でもアリーナは満員でした。それは北京やリオ大会の時も同じだったけれど、なんというか一過性ではない空気があった」

試合が終わってロンドンの街に出ると、たくさんの市民から声をかけられた。

「まるでサッカーのスター選手にでもなった気分ですよ。これだけの人が車いすラグビーを見て、知って、魅力を感じてくれている」

パラリンピックがロンドンに、イギリスに浸透していることを肌で感じられたのだという。

写真:床に横たわる島川

時折、島川のこのようなシーンを見かける。島川はまず「冷たくて気持ちいい」と感じ、次には、「起きた後、どっちに動こうか、どんな展開をしていくか」と考えるのだそうだ。


「東京大会でも同じことが、いやそれ以上のことが起こって欲しいって思うんです」

世界選手権で優勝しても、結局、人の心に残るのはパラリンピックなのだということを、4大会連続出場して感じている。

「ここまで来たら、車いすラグビーは人生そのもの」

日本チーム、日本は、東京開催決定によって変化を遂げてきた。その行く末を、選手として見守っていきたいのだと、島川はまっすぐに前を向く。

スポーツライター 宮崎恵理

スポーツライター 宮崎恵理(みやざき・えり)

出版社勤務を経て、フリーのライターに。1998年の長野パラリンピックを機に障害者スポーツの取材に携わり、雑誌「Tarzan」ほか「スポーツグラフィックナンバー」などで執筆。現在、「Tarzan」「それを最大限に活かせ! パラアスリートGO!」の連載を展開中。12年ロンドン・パラリンピック、14年ソチ・パラリンピックではNHK開会式中継解説を担当。著書に『心眼で射止めた金メダル』『希望をくれた人』。日本スポーツプレス協会理事、国際スポーツプレス協会会員。

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