第36回 鈴木徹(陸上)「20年目の存在感」

陸上 2019年10月29日
写真:鈴木徹

「40歳で2mを超えるジャンプをしたい」
日本における義足ジャンパー(走り高跳び)のパイオニア、鈴木徹の言葉だ。こう語ったのは、2014年のこと。2006年のジャパンパラ競技大会で2m00を跳んでからは、2mを超えるジャンプを再現できずにいた時期である。

1980年生まれの鈴木は、高校卒業を控えた18歳の時に交通事故で右足膝下を切断。1年後、2000年のシドニーパラリピック(当時はT44クラス、現在はT64クラス)に初出場し、視覚障害と車いすの選手ばかりだった日本の陸上競技界で、義足のアスリートとして初めて走り高跳びに臨んだ。以来、アテネ、北京、ロンドン、リオと5大会連続出場している。2mの跳躍の後、踏み切る左脚にいわゆる“ジャンパー膝”と呼ばれる故障を負い、12年のロンドンまで痛みと戦っていた。ようやく自分にあった治療法に出合い、16年のリオ大会直前のプレ大会で2m02のアジア記録を樹立するも、メダルの期待がかかったリオパラリンピックでは1m95で4位にとどまった。周囲からは「引退か!?」と囁かれたが、1年後の世界選手権では2m01を跳び、銅メダルを獲得。

2020年、東京パラリンピックはまさに40歳で迎える。

「僕は自分の足で跳びたいんです。なんだろう、突き上げてくる感じ、気持ち良さ。ジャンプ(走り高跳び)は、一生続けていく。ライフワークです」


■スポーツに熱中させた病気と吃音症

写真:満員の北京スタジアムで高跳びをする鈴木徹

2008年9月 北京パラリンピック 陸上・走り高跳び 男子F44/46クラス 決勝

「子どもの頃から“プロ選手”になりたいと思っていました。小学生の時にはサインの練習をしていたくらい」

鈴木をそこまでスポーツに没頭させた要因は2つある。どちらも5歳に遡る。1つは、徐脈性不整脈という病気により平常時の心拍数が32までに落ちてしまい、激しい運動を禁止されたこと。体を動かすことが好きな少年は、やりたいことができないもどかしさを募らせていた。

もう一つは、吃音症だ。4歳年下の妹が自宅近くの小川で流されそうになり、慌てて母親に告げに行った時、言葉が出なかった。以来、言葉を発するたびにつまずくようになる。小学校に進学しても吃音は続き、それはいじめの対象になった。真似をされ、からかわれる。無口になっていく鈴木が唯一生き生きと躍動したのが体育の時間だった。言葉はなくても体を動かすことで喜びが得られる。体育があるから、いじめられても学校に通い続けることができた。
「スポーツは、自分が生きていくために不可欠なもの。体育の時間に呼吸しているような感じでした」
成長に伴い、不整脈の症状がなくなったことも幸いした。小学校ではバスケットボール、中学に進学してから高校までは、地元・山梨県で盛んなハンドボールで活躍。高校時代には国体3位という成績を残している。

「でも、今になって振り返ると、バスケもハンドボールも、“ジャンプ”するから夢中になれたんです。シュートは常にジャンプシュート。僕は単にシュートを決めるより、空中で人をかわしてパスを出したりする方に興味があった。跳躍が、自分の基礎でした」

交通事故の後、義足でスポーツを始めるに当たって走り高跳びを始めたのは、だから、必然だったのだという。


■スキーで獲得したコーナリング

写真:満員のロンドン・オリンピックスタジアムで高跳びをする鈴木徹

2012年9月 ロンドンパラリンピック 陸上・走り高跳び 男子F46クラス 決勝

入院した時から、鈴木は、義足でスポーツをすることを思い描いていた。義足を紹介するリーフレットの中に、義足で走ったりサーフィンをしたりする人の写真を見つけ、自分もすぐにスポーツをしたいと、日常用の義足とともに陸上競技用のカーボン義足を発注した。

鈴木の踏切足は、義足ではない左足である。とはいえ、ベストなタイミングで踏み切るためには、助走での義足の使い方が重要になる。初出場したシドニー大会で、鈴木は競技用のブレードを装着した。軽く、反発力のあるブレードの先端に、自分で金属のプレートの重りを取り付け、浮き上がりすぎないように工夫を施した。
その後、アメリカのジェフリー・スキバが日常用義足を使用して2m08という当時の世界記録を樹立する姿を見て、アテネ大会では日常用義足で競技に出場している。結局、助走スピードやクリアランスを考慮してカーボン製のブレードに戻すが、北京大会の時には、コーナリングする助走のために、ブレードにわずかな傾斜をつけるという工夫も試した。
12年のロンドン大会を終えると、30歳を越えていた。
「もう、若い時と同じような練習を続けるだけでは記録を伸ばすことはできない、と痛感していました」
その頃、6歳になる長男を連れて初めて一緒にスキーに出かける。義足にブーツをはきショートスキーを装着して緩やかな斜面を滑走した。
「スキーでターンする時に、体を内倒させたらスキーがエッジングしてくれたんですよ。その動作で、義足を意識しすぎるのではなく、もっと自然に体を義足に預ければいいんだと気づいて」
それが、14年の冬。その感覚を獲得した翌年、ブラジル・サンパウロの大会で9年ぶりに2m00を跳んだのだった。


■ベテランと若手がともに成長

写真:リオ・オリンピックスタジアムで高跳びをする鈴木徹

2016年9月 リオパラリンピック 陸上・走り高跳び 男子T44クラス 決勝

鈴木の軌跡は、そのまま日本陸上競技の義足選手たちの成長と重なる。シドニー大会には、鈴木の他に古城暁博がトラック競技に初出場した。世界中の選手たちが競技用義足を使って一気に記録を伸ばし始めた頃のことだ。
「僕ら義足選手のスタートラインでした。でも、当時、日本チームの中で僕らは、視覚障害選手の介助を手伝うなどの役割がたくさんあり、競技に集中できる状況ではありませんでした」
4年後のアテネ大会には、佐藤(現・谷)真海が女子の義足選手として初めて出場する。08年の北京大会では、山本篤が走り幅跳びで銀メダルを獲得し、義足選手と上肢障害の選手がチームを作ってリレーに出場した。

そこから11年。2019年、ジャパンパラ競技大会や日本選手権では、義足の選手が出場する短距離種目で予選が行われるほど、競技人口は増加している。日本の義足アスリートとして、鈴木はその成長をつぶさに見てきたのだ。
「オリンピックと単純に比較できるわけではありませんが、一般のスポーツでは、世代交代は早いと思います」

パラスポーツでは世代を超えて現役選手がともに切磋琢磨していることが少なくない。
「北京とリオの2大会で銀メダルを獲得した(山本)篤が、今も若手と一緒に走っている。それが若い世代に与える影響は大きいと思うんです」
競技用義足のテクノロジーが進化し、レベルがどんどん上がっている中で、ベテラン選手たちが以前から積み重ねてきた工夫や努力が、若い世代にダイレクトに伝承されていくのだ。
「日本には、篤の走りやジャンプを見て育っている世代が、今確実に増えています。残念ながら義足での走り高跳びにはまだ出てきていないけれども」

義足を使う選手といっても、一人ひとり程度や状態が異なる。だからこそ、情報と経験を共有できるのだと、鈴木はいう。
「人数が増えて同じクラス同士では、国内競争が成り立つようになってきた。それは健全な姿です。それでも、日本のパラ陸上の選手たちは、自分のレースが終わると、スタンドで他の選手の応援をしたりしていますよ。世代を超えて様々な選手が高め合っていく土台がある。それが、日本の強みになっていると思います」


■伝えること、広めること

写真:ジャカルタの会場で高跳びをする鈴木徹

2018年10月 ジャカルタ アジアパラ 陸上・走り高跳び 男子 T64/44クラス 決勝

鈴木が一生をかけて続けたいという“ジャンプ”とともに力を入れているのが、“伝えること”“広めること”だ。鈴木は講演回数の多いアスリートでもある。シドニー大会に初出場した頃はせいぜい年に3、4回だったが、旗手を務めた北京大会を機に年間30回を超えるようになった。これまでに1000回に及ぶ講演を行なっているという。

「2013年に東京オリンピック・パラリンピック開催が決定したことも、大きなきっかけでした」
選手として、パラリンピックに出場する。もちろん、それが本分である。しかし、一方で、それが社会に対して与える影響の行方を見守り、修正していくことも求められているのではないか。鈴木は真剣にそのことを考えている。


写真:鈴木徹

「僕らはパラアスリートですが、“障害者の代表”ではないんです。なんらかの障害がある人が、友人や知人に何気無く“パラリンピックを目指すの?”と聞かれたりします。実際には、障害者が全てパラリンピックを目指すわけではありませんよね。でも、それが当たり前のようになってしまっている。パラアスリートが、障害者の障壁になってしまっているところがあるんです」

その誤解によって苦しんでいる障害者にとって、ネガティブな要素になることを、講演を活用して、丁寧に取り除いていくのだと。小学校から大学、そして企業まで、あらゆる場で話をする機会がある。その時に必ず伝えているのが、「“夢”なんか持たなくていい。それより自分が熱意をもてるものを意識すること」だ。

熱意をもてるものがスポーツであるとは限らない。
「ただ、僕の場合は“ジャンプ”だったということ。吃音に悩まされていた子ども時代の僕を解放してくれたのもジャンプだし、右足を切断してハンドボールができなくなったことで、反対にジャンプに専念できるようになった」
ということを、切々と語る。

ある高校での講演会が終わった後、生徒から感想文が送られてきた。その中に1つだけ、ただ名前と「ありがとう」と書かれたものがあった。
「担任の先生からのコメントでは、その生徒は3年間、一度もテストや提出物に名前を記入することもなかったそうです。だから、名前と“ありがとう”の文字を書くことが、その子にとってどれほどすごいことだったかを理解してほしい、と」
社会的な役割は、パラアスリートだけが持つものではない。全ての人が何かしらを担って生きている。鈴木にとっては、その一つの形が講演活動なのだ。


2020年。そして、その先へ。自分が熱くなれるものを握りしめ、その手のひらを開いて見せることで、障害者が様々なステージで活躍する社会のイメージを拡散させていく。パラアスリート20年目の節目を迎える鈴木の存在感は、とても大きい。


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画像:パラ陸上世界選手権 特設サイト_11月7日から連日生放送


スポーツライター 宮崎恵理

スポーツライター 宮崎恵理(みやざき・えり)

出版社勤務を経て、フリーのライターに。1998年の長野パラリンピックを機に障害者スポーツの取材に携わり、雑誌「Tarzan」ほか「スポーツグラフィックナンバー」などで執筆。現在、「Tarzan」「それを最大限に活かせ! パラアスリートGO!」の連載を展開中。12年ロンドン・パラリンピック、14年ソチ・パラリンピックではNHK開会式中継解説を担当。著書に『心眼で射止めた金メダル』『希望をくれた人』。日本スポーツプレス協会理事、国際スポーツプレス協会会員。

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