第37回 三井利仁(陸上)「地域から、世界へ」

陸上 2019年11月4日
写真:日本パラ陸上競技連盟理事長 三井利仁

三井利仁(みつい・としひと)氏は、日本パラ陸上競技連盟の理事長だ。国際化の強化やスポンサー企業の確保、普及活動などに携わる。また、障害者スポーツを研究テーマとする日本福祉大学スポーツ学部の准教授でもあり、パラアスリートを支えつつ、先導する役割を担う。
三井氏は、1980年代からパラスポーツの指導に携わってきた。1996年のアトランタパラリンピックに初めて陸上競技のコーチとして日本チームに帯同。パラスポーツを見続けて、30年以上に及ぶ。三井氏の目に映るパラスポーツの姿は、どう変化してきたのか。選手とは違った立ち位置から、迎える2020年の東京パラリンピックの展望を語ってもらった。


■スポーツとしての環境整備を図る

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1996年8月 アトランタパラリンピック 陸上100m(T53)のレースで優勝したイギリスのDavid Holding選手(右)

1964年生まれの三井氏は、東海大学体育学部3年の時に、神奈川県リハビリテーションセンターに実習で通った。ちょうど、1984年のロサンゼルスオリンピックが終わった頃のことである。昼間は患者の治療が中心だが、夜になると車いすバスケットボールやアーチェリーの選手が練習のためにセンターを訪れていた。

「僕自身は大学でアメリカンフットボールをしていました。パラスポーツは同じスポーツなのに、何かが違う。スポーツとしての明るさ、楽しさみたいなものが感じられなかった。それでも、そこに、自分たちがやっているスポーツとしての手法を取り入れることができないか、ということを感じていました」

初めて見るパラスポーツに戸惑いを覚えつつも、同時に、同じスポーツという分野における可能性を感じてもいた。

アメリカンフットボールは、とてもシステマチックなスポーツである。選手のポジションによる役割が明確で、その選手の特徴を生かしたプレーができる。そのままパラスポーツにスライドさせることはできないが、その人にアダプト(適合)させてトレーニングを実践し、競技力を高めるという基本は通底するはずだ。

三井氏は、実習が終了しても休みの日にセンターに通い続け、パラスポーツの勉強を続けることにした。

大学を卒業すると、日本障害者スポーツ協会に就職。東京都多摩障害者スポーツセンターに配属され、スポーツ指導に携わるようになった。

「当時は、指導者もスポーツをする障害者も、まだまだ福祉的な観点でしかスポーツを捉えていなかった。選手たちは、“自分たちにできることは何か”と手探りしているような状態でした。それを見て、私は『順序が逆だろう』と思ったんです。“できること”ではなく“やりたいこと”をやる。選手がやりたいことを実現するために、できることを探っていく。そういう環境を整備しなくてはいけないと思っていました」

当時、もっとも密にコミュニケーションをとっていたのが、車いすで陸上競技に取り組む選手たちだった。自分たちの競技力が向上するようなトレーニング方法を教えてほしいと、懇願されていた。

「衝撃を受けたのが、1991年に東京で開催された一般の陸上競技の世界選手権です。この大会で、車いすのトラック種目がエキシビションレースとして行われました。ヨーロッパの選手がゴールした時点で、日本ではトップと言われていた選手が、まだバックストレートを走っていました。その惨敗ぶりに衝撃を受けたんです。車いす選手にとって、競技力を向上させるために必要なことは何なのか、それを確立することが急務なのだと、改めて痛感しました」

アメフトでも、速く走ること、体力強化は大命題であり、そのためのトレーニング方法は確立されている。それをパラ陸上に生かすことに全力を注いだ。

90年代初頭に、すでに陸上競技の世界選手権で車いすのエキシビションレースが行われていたことには、驚きを禁じ得ない。一部とはいえ、パラスポーツをパラリンピック以外で観戦できる機会があったということだ。
「当時は、まだ国内大会ではそのようなエキシビションは実施されず、また、それが報道されるということもありませんでした」
車いす選手たちのレースは、世界選手権のスタジアムに足を運んだ観客の心を捉えることはできたかもしれないが、そこから広がりを見せることはなかったという。


■国がパラスポーツを強化―北京大会が分岐点に

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2008年9月 北京パラリンピック 陸上200m(T54)のレースにて優勝した中国の張立新選手。4年前のアテネ大会ではメダルを獲得できなかったが、地元で開催された本大会ではリレー2つを含む4つのレースで金メダルを獲得した


三井氏は、1996年のアトランタパラリンピック以降、2016年のリオまで6大会に帯同している。2012年のロンドンパラリンピックは、大成功を収めたエポックな大会と言われているが、三井氏が感じている節目のパラリンピックは2008年の北京大会だ。

「北京では、私は国際審判員としてパラリンピックに行っています。その4年前、アテネ大会では、日本チームは、オリンピックを含めあらゆる競技で多数のメダルを獲得しました。ところが、北京では激減している。その要因は、開催国・中国の大躍進です」

開催国が活躍するということは、どのパラリンピックでも起こりうるが、その桁が違ったという。

「国を挙げて強化し、成果が確実に表れた。中国は、その流れを北京で作り上げたんです」

特に、日本のパラスポーツの世界では、 “選手個人”がどれだけ時間と費用を費やして強化したかが、結果に表れることが多い。北京大会では、“国”がパラリンピック選手を丸ごと強化するという体制を見せつけられた。その次に行われたロンドン大会、冬季のソチ大会でのイギリスやロシアの躍進も、然り。

「北京は分岐点だった、と思います」

となれば、2020年の東京パラリンピックでは、日本が大躍進を遂げるという結果を見られるのだろうか。

「正直、メダル獲得数で言えば、世界の競技レベルが非常に拮抗してきているため、中国やイギリスが実現してきたような大躍進はないでしょう」

開催国だけが突出して活躍するという構図は、もはや、なくなってきている。競技レベルが向上している証左(しょうさ)なのだという。

「ただ、日本もその中で確実に力をつけてきている。前回リオで取れなかった金メダルは、来年の東京大会では複数獲得できる、と確信しています」

北京大会やロンドン大会と同一にパラリンピックを語ることはできない。パラリピックそのものが進化した姿を、東京大会では見られることになるだろう、と三井氏は語る。

そして、パラリンピックで活躍する選手たちの姿は、あらゆる人に“可能性”を示すアイコンとなる。
「車いす、義手や義足、視覚障害、そして機能障害など。努力を積み重ねることであの領域まで高められると、見ている人に伝わる。東京パラリンピックも、まさにそういう場になるのだろうと思っています」


■一人ひとりにアジャスト(調整)する

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陸上T52(車いす)クラスの世界記録保持者・佐藤友祈(左)と、上与那原寛和(右)とともに


三井氏がパラスポーツに関わるようになった1980年代、まだまだリハビリとして捉えられていたパラスポーツは、現在、日本の障害者にとって、魅力的なコンテンツになっているのだろうか。

「確実になっていると思います。体験会などでも参加者は増えていて、車いすでも外出したいと考える障害者や子どもたちが、さらに外に連れ出したいという家族の希望が増えている。地方都市で開催された体験会に、わざわざ東京から駆けつけた、という人もいました」

東京パラリンピックをきっかけに、発掘・育成という流れが拡大してきたが、オリンピックとは異なり、中途障害などもあるパラスポーツでは、画一的に若手育成を語ることはできない。

「一般のスポーツでは、例えば小学生がスポーツ少年団で親しめるような環境があり、地域でスポーツを楽しんでいます。また、中学生以上になると、小学校で活躍した子どもの情報などが共有でき、地域での横の連携も見られます。ところが、障害のある子どもたち、中途障害を負った人たちが身近にスポーツを楽しめる環境はまだ整っていない。一方で、先天性の障害などで小さい時から車いす陸上をしている子どもがいても、中途障害でパラ陸上に転向してきた人がいきなりいい成績を出す、という事例もある。パラリンピック、パラスポーツは計算しにくいところがあります。結局、一人ひとりにアジャスト(調整)していかなくてはいけないのです」

パラ陸上競技連盟の理事長としては、“計算しにくい”と思われるパラスポーツを。どのように広めていくことが肝要、と感じているのか。

「知ってもらうこと、見てもらうこと。例えば陸上競技なら、日本陸上競技連盟と提携して、日本選手権やグランプリシリーズなどで障害者のエキシビションレースを実施する。観客が現場で観る、報道を通じて知る、という効果もありますが、それ以上に審判や競技に携わるボランティアなどに与える影響が大きいんです。あんなすごいレースを見た、すごい選手がいた。じゃあ、地元でもやろうよって、そういう動きが出てくる」

パラリンピックや国際大会という大きな舞台も大事だが、それをいかに地域に密着させるか。それこそが、広がっていくための大事なルートになるのだという。

「地域の理解や情報が広がれば、練習環境が変わる、選手育成、指導の現状も変わっていきますよ」


■残したいレガシーは地域活性化

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2018年7月 群馬県で行われたジャパンパラ陸上競技大会にて パラ陸上競技連盟の大会競技委員と


東京パラリンピック開催が決定し、パラスポーツの選手は大学のグラウンドや地域のトラックで、一般の選手と一緒に練習できるまでに環境は変化してきた。
「今、そこに違和感がある人はいません。インクルーシブ(包括)が浸透してきた結果なのだと感じています」

東京パラリンピックが行われた後に、三井氏が残したいレガシーは、“地域の活性化”にある。

「パラスポーツは、パラリンピックに出場するトップアスリートのためだけのものではありません。地域から盛り上がって、地区大会や予選会が行われ、そこで勝ち抜いた選手が全日本へと進むというようなボトムアップを作っていきたい」

2020年、東京パラリンピックで日本が活躍する姿を全国に見せることで、その第一歩にしなくてはいけない。

「人々が東京でのパラリンピックを見て、大興奮して、そして記憶の底に残してもらう」

三井氏が80年代に、最初にパラスポーツに出合った時にも、車いすのアーチェリー選手や車いすバスケットボールの激しい戦いぶりを見て、やはり興奮を覚えたという。

「そこが、原点です。その後、世界を見てもっとすごいと思いましたけれど、だからこそ、日本の選手を勝たせたい、と強く思うようになりましたから」

三井氏は、これからも汗を流す。さらなるパラスポーツの発展のために。



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スポーツライター 宮崎恵理

スポーツライター 宮崎恵理(みやざき・えり)

出版社勤務を経て、フリーのライターに。1998年の長野パラリンピックを機に障害者スポーツの取材に携わり、雑誌「Tarzan」ほか「スポーツグラフィックナンバー」などで執筆。現在、「Tarzan」「それを最大限に活かせ! パラアスリートGO!」の連載を展開中。12年ロンドン・パラリンピック、14年ソチ・パラリンピックではNHK開会式中継解説を担当。著書に『心眼で射止めた金メダル』『希望をくれた人』。日本スポーツプレス協会理事、国際スポーツプレス協会会員。

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