パラ陸上世界選手権 前川楓「ポポフというエンジン」

陸上 2019年11月20日
写真:前川楓

競技が始まる直前、今シーズン、日本チームのテクニカルアドバイザー(特別コーチ)に就任したハインリッヒ・ポポフが、前川楓を見つめて、こう言った。

「僕の目を見ろ」

緊張と力みで、練習の時とは違う人格の自分が現れてしまうと感じていた前川が、すっとポポフの瞳を見つめる。

写真:ハインリッヒ・ポポフコーチ

「君には才能がある。自分を信じて、深呼吸をして、いつも通りに跳べばいい」
静かに力強く、ポポフが前川に語りかけた。
この言葉に力を得て、前川は走り幅跳びのピットに向かった。

女子T63走り幅跳びに出場した前川は、1回目の試技で4m09の自己新をマーク。さらに、4回目には4m 13で記録を更新し、東京パラリンピック出場権内定が決まる4位でレースを終えた。


■日本選手が健闘!走り幅跳び

写真:走り幅跳びをする髙田・山本・中西・兎澤

左より、髙田千明(T11)、山本篤(T63)、中西麻耶(T64)兎澤朋美(T63)


ドバイで行われている2019パラ陸上競技世界選手権で、日本人選手の活躍が目覚ましたかった種目に、走り幅跳びがある。

11月8日に女子T12(視覚障害)で澤田優蘭、9日に女子T11(視覚障害)で髙田千明、10日に男子T63(大腿義足など)で山本篤、11日に男子T47(上肢障害など)で鈴木雄大芦田創、女子T64(下腿義足など)で髙桑早生中西麻耶、12日に女子T63(大腿義足など)で前川楓兎澤朋美村上清加、13日に男子T20(知的障害)で小久保寛太が出場した。

このうち、中西麻耶が金メダル、山本篤、兎澤朋美が銅メダルを獲得。さらに東京パラリンピック出場権内定となる4位には、前川のほか、髙田千明が滑り込んだ。男子T47、女子T64、T63では日本人選手が複数エントリーし、全員が後半3回の試技を行えるベスト8に残った。

現在21歳の前川は、中学3年生の時に交通事故で右脚大腿部を切断。高校2年生から本格的に競技に取り組むようになる。2016年にリオパラリンピックに出場し走り幅跳びで4位入賞、2017年ロンドンで行われた世界選手権では、銀メダルを獲得した。一般の陸上競技走り幅跳びの日本記録保持者で、現在はジュニア向けの陸上教室を主宰する井村(旧姓/池田)久美子氏に個別指導を受けるようになり、記録が上がってきた。今大会にも現地に帯同している。井村氏の存在は、前川の成長には欠かせない。

写真

ハインリッヒ・ポポフ(リオデジャネイロパラリンピック)

一方、日本チームの特別コーチ、ハインリッヒ・ポポフは前川と同じT63クラスのパラリンピアン。2008年の北京大会から出場し、12年ロンドン大会では100mで、16年のリオ大会では走り幅跳びでそれぞれ金メダルを獲得。18年に現役を引退した。義足メーカーが主宰するランニングクリニックのコーチを務め、毎年シーズンオフに来日して、競技用義足を履いて走ってみたいという障害者にレッスンを行っている。前川、兎澤ら義足の選手たちは、以前、このクリニックでポポフの手ほどきを受けた経験がある。

前川楓選手、兎澤朋美選手、大西瞳選手の練習の様子

ポポフ氏の指導を受ける前川(左から二人目)

「ポポフさんがコーチになったことで、これまでは聞きたくても聞けなかったことを質問できるようになりました。素朴な疑問でも、ポポフさんはとても丁寧に教えてくれます」
ポポフが指導する義足と健足の使い方のバランスは、とても重要だ。
「左右均等に走るのがいいという人もいますが、(山本)篤さんのように、左右非対称に動かす方が、走りのバランスとして合っているという人もいます。切断している足の形状などいろいろな要素で、自分に合った走りを、それぞれが模索してベストを探っていくしかありません」
走り方は人それぞれでも、共通する体の使い方があるという。
「お尻でキュッとコインを挟むような力の入れ方をすること。これがきちんとできると、足が接地した時にポンと体を推進させることができるんです」
これは、ポポフがランニングクリニックで最初に受講者に教える基礎的なテクニックである。
「走る時にも、踏み切りの瞬間も、“お尻”を使う。まだまだきちんと実現できるのは10回に2回くらいの割合でしかない」
走りの基礎は、そのくらい実現が難しい高度なテクニックでもある。


■本番で結果を出すということ

写真:幅跳びをする前川

今シーズン、前川は練習では何度も4mを超えるジャンプを見せていたが、競技本番でなかなか記録に結びつくことがなかった。そんな前川を、ポポフはメンタル面でも支えた。今大会、1回目に自己新となる4m09を跳ぶも、2回目は3m90。3回目のジャンプはファウルだった。

「ポポフさんが胸に手を当てて大きく呼吸する動作で“深呼吸”の合図を送ってくれました」

ファウルはしたが、3回目の感覚は抜群にいいイメージだったという。4回目の前、初めて電光掲示板で自分が4番手につけていること、1本目が自己新の記録だったことを確認。その後、大きく深呼吸した前川が、4回目を跳ぶと、4m13。再び自己新を更新する跳躍を見せたのだった。

「楓は、練習ではレースの何倍も素晴らしいジャンプを見せていた。緊張やストレスなくレースに臨めれば、絶対に記録が出ると信じていた」
ポポフは、自己新を出した前川について、そう語った。

「どうしても日本人は遠慮がちで、ガッツが表に出ない。(山本)篤はその点、トップアスリートだ。ガッツを表現できる。楓や(兎澤)朋美にはまだそれが足りない。とはいえ、兎澤はこの1年、どんどん私に質問をぶつけるようになった。毎日コミュニケーションアプリでテクニック、メンタル、全てを聞いてくる。その積極性がメダルにも結びついていたと思う」

前川は言う。
「世界のレベルはすごい勢いで上がっています。2年前の世界選手権で、私は3m79という記録で銀メダルを獲得しましたが、今大会だったら4回目以降に進出できなかったかもしれない。今や4mどころか5mを狙っていかないと金メダルは取れなくなってきています」

写真

女子走り幅跳び(T63)決勝にて、左より、村上清加(7位)、兎澤朋美(3位)と前川(4位)

そんな中、今年4m44というアジア記録をマークし急成長してきた兎澤が、今大会でも4m32のジャンプで銅メダルを獲得。走り幅跳びで日本が躍進している大きな要因は、やはりポポフの存在であると、前川は考えている。

「また、男女関係なく、チームで情報を共有できていること。誰かが何かうまくいったら、みんなで分かち合えているんです。ポポフさんだけでなく、篤さんなど先輩が解説してくれたりもする。日本チームの走力を、全員で上げていることも、強くなっている理由じゃないかな」

最大のライバルである兎澤も、前川にとっては、大事な存在。
「朋ちゃんが出てきたことで、自分の中の炎がもっともっと大きく燃え上がってきました。絶対に負けたくないと言う気持ちはあるけど、朋ちゃんが銅メダルをとったことは心の底から嬉しい。朋ちゃんの成功を喜べるようになったことは、自分の成長に繋がっています。ライバルでもあるけれど、大事な友だちです」


障害の状態が一人ひとり異なり、その人なりのベストの走りを個別に追求するパラ陸上だからこそ、過剰なライバル意識ではなく仲間意識が生まれる。そこに、ポポフという大型エンジンが加わり、活躍を大きく後押しする。

来年、東京パラリンピックの陸上競技でも、日本の走り幅跳びの選手たちのニュースで賑わうことになるだろう。さらなる跳躍に期待したい。


■関連動画

前川楓 4位で東京パラ内定! 女子走り幅跳びT63決勝 パラ陸上世界選手権(2019/11/12)

前川楓選手 インタビュー 女子走り幅跳びT63決勝(2019/11/12)

「パラ陸上 世界選手権2019」日本代表、前川楓(2019/11/2)

「義足を自分のものに」ハインリッヒ・ポポフが教えてくれたこと(前編)-ごとうゆうき・ドバイ取材日記(2019/4/19)

スポーツライター 宮崎恵理

スポーツライター 宮崎恵理(みやざき・えり)

出版社勤務を経て、フリーのライターに。1998年の長野パラリンピックを機に障害者スポーツの取材に携わり、雑誌「Tarzan」ほか「スポーツグラフィックナンバー」などで執筆。現在、「Tarzan」「それを最大限に活かせ! パラアスリートGO!」の連載を展開中。12年ロンドン・パラリンピック、14年ソチ・パラリンピックではNHK開会式中継解説を担当。著書に『心眼で射止めた金メダル』『希望をくれた人』。日本スポーツプレス協会理事、国際スポーツプレス協会会員。

おすすめの記事