第43回 清水千浪(車いすバスケットボール)「攻守のマルチプレーヤーを目指して」

車いすバスケットボール 2020年4月20日
写真:車いすバスケの試合中に前に進む清水千浪選手

2019年8月 車いすバスケットボール女子日本代表国際強化試合

車いすバスケットボールでは、常にホイールを操作しながらボールをコントロールする。1回のプレーで、手のひらも爪の先も真っ黒に汚れてしまう。それでも、清水千浪の両手は、短く切りそろえた爪にネイルが施されている。右手の親指に描かれているのは、いつもNBAの選手のイラスト。2月初旬の取材当時の親指には、1月28日に突然亡くなったコービー・ブライアントの姿があった。

写真:清水選手のカラフルなネイル。右の親指には、紫と黄色のユニフォームを着たコービー・ブライアント選手

「笑顔のイラストだと涙が出ちゃうから、哀悼の意を込めて後ろ姿にしました」

車いすバスケットボールの日本女子代表は、パラリンピックには1984年ニューヨーク・エイルズベリー大会に初出場し銅メダルを獲得。その後、2000年シドニー大会でも銅メダル、08年北京大会では4位と健闘するが、12年のロンドン大会、16年のリオ大会には出場さえ果たせていない。

清水は、日本女子が出場を逃したリオ大会の後、日本代表選手の一人として選出された、持ち点3.0のプレーヤーである。18年のアジアパラ競技大会や、19年のアジアオセアニア選手権などに出場し、自身にとって初めてとなる東京大会での活躍を目指している。


■プロサッカー選手として活躍

写真:バスケットゴール前、車いすに座っている清水選手

2020年2月 練習前の清水を筆者撮影

清水千浪は、1982年、滋賀県に生まれた。故郷は林業で有名な地で、山に入って山菜とりを楽しむような自然児だったという。小学生の頃には男子と一緒にサッカーや野球に興じる。

「当時、澤穂希さんの記事を雑誌で見て、女子サッカーがあるということを知り、がぜんやりたい気持ちが沸き起こりました」

中学・高校では陸上部に所属。愛媛大に進学して念願のサッカーを始めた。

「サッカーでインカレに出場したいと思っていました。体育大に進学したら、レギュラーにはなれない。また、愛媛大の近くにある松山大学にも女子サッカー部があり、愛媛大に通学しながら松山大のサッカー練習にも参加できるということで、戦略的に愛媛大に入学したんです」

在学中の20歳の時、新潟アルビレックスのトライアウトを受け入団。しかし、大学サッカー部とは異なり、プロの世界ではなかなか試合出場が叶わない。アルビレックスに2年間在籍後、活躍の場を求めてバニーズ京都SCに移籍。半月板の損傷によって25歳で引退するまで、プロサッカー選手としてピッチを駆け回っていた。

アルビレックス在籍中からJAPANサッカーカレッジという専門学校に通って、トレーナーとしての技術を学んでいた清水は、引退後、トレーナーの道を歩み始めた。大阪のトレーニングジムに所属し、スポーツ選手をはじめ一般の人などを対象にパーソナルに指導する。そんな中に、パラアルペンスキーの狩野亮もいた。

「狩野選手は腹筋が使えない脊髄損傷だと聞いていたのに、トレーニングを重ねるごとにできることが増えていく。トレーニングに携わって、人間のポテンシャルってすごいな、と実感していました」


■<カクテル>に一目ぼれ

写真:右手でボールをつかみ、ゴールを狙う清水選手

2018年11月 車いすバスケットボール 全日本女子選手権 決勝

褐色細胞腫という病気で、清水が障害を負ったのは、30歳の時だ。副腎髄質に腫瘍ができ、ホルモン異常が起こる。その結果として血流、血圧に変動を起こして体に異常をきたす。

「右足のえ死がひどく、真っ黒に変色して指先を切断する事態になりました。また、両足ともに足首がまっすぐになったままの状態になり、それを改善するための手術を何度も受けました」

現在も治療とリハビリが必須。症状が悪化すれば、再び手術、というリスクもある。室内などでは装具をつけて歩行することができるが、外出には車いすを使用する。

車いす生活になって、最初に取り組もうと思っていたのは陸上競技だった。

「一人で黙々と取り組めるのではないか、と思っていたんです。同時に、他にも車いすテニスだとか、カヌーだとか、いろんなことを体験しました。その中の一つが車いすバスケでした」

インターネットで検索し、近隣の大阪・京都を拠点とする<カクテル>という女子チームの存在を知り、連絡をとって見学に出かけたのだった。

「バスケは選択肢の一つだったのに、チームの練習を見たら、もうすごく楽しそうで。チームにはいろいろな障害や個性の選手がいて、共通の目標に向かっている。自分の知らない世界が広がっていたんですよ。その世界が知りたいという気持ちがすごく沸き起こってきたんです。最初は、バスケがやりたいというより、とにかくこのチームで一緒にプレーしたいという気持ちになり、すぐに始めました」

<カクテル>は1993年に全日本選手権大会で準優勝して以来、2019年までに10回もの優勝を飾っている日本屈指の強豪チーム。日本代表選手も多く、パラリンピックという目標が明確でもあった。

「最終ゴールを先に聞く、というイメージでした。知らないことは何でも教えてくれる。目標がある方が、迷いがない。それはサッカーをやっていた頃から感じていたことだったので、<カクテル>というチームを通じて車いすバスケにすっと入ることができた。そこからは夢中で車いすバスケに取り組んできました」

写真:右手でドリブルをする清水選手

2018年11月 同大会より

健常時代から様々なスポーツに取り組んできたが、車いすバスケは初めて。熱心に練習するとできることがどんどん増えていく。

「サッカーでも、ゲーム中にヘディングシュートを決めたとか、いいディフェンスができたとか、そういうプレーは鮮明に覚えているんですね。それと全く同じです。練習でも試合でも、自分が“できた!”と実感したプレーの瞬間が積み重なっていく。それが楽しみでした」

現在は、このカクテルを中心に、地元・滋賀県にある男子チーム<レイク滋賀BBC>で練習。男子の強豪チームである<宮城MAX><ワールドBBC>に、出稽古に赴く。もちろん、代表合宿にも参加する。毎日、どこかの体育館に清水の姿がある。


■世界のミドルポインターに注目

写真:左手でドリブルを行う清水選手

2019年2月国際親善女子車いすバスケットボール大阪大会 オランダ戦


強化指定選手として日本代表合宿に参加するようになったのは、2016年9月から。カクテルで練習するようになって、わずか1年後のことだ。

リオ大会以降、世界では機動力のあるミドルポインター(3.0前後の持ち点選手)が、ゲームメイクの中心になっている。

「代表合宿に参加するようになって、世界で注目すべき選手を教えてもらった中にも、中国やイギリスなどのミドルポインターがいました。また、男子の試合を見ることもありますが、そういうときにも、世界のミドルポインターに注目しています」

攻守にわたってマルチに動けること。得点力の高いハイポインターを生かし、ローポインターの信頼を得られる選手。それこそが、3.0選手の理想だと、清水は考える。

「得点力のあるハイポインターがインサイドに入ってくれた方が、確率は高いですが、ハイポインターがボールを持っていれば、簡単に中に切り込むことはできません。そんなときに、自分がインサイド、アウトサイドを自由に行き来して、パスを供給したりシュートを決めたりする。そういうプレーを目指しています」

2019年2月に大阪で行われた国際親善大会。オランダと対戦したときのプレーが忘れられない。

写真:シュートする清水選手

「日本は私と(藤井)郁美がオフェンス、相手は体格の大きな2人がパワーでディフェンスする2対2の場面でした。2度ピック()をかけたらうまくインサイドに切り込むことができて、私がノーマークでシュートを打てた。スローモーションのように記憶に残っています」

※ピックとは、攻撃側の選手が守備の選手に対して車いすの幅を利用して壁となり、味方の攻撃をアシストすること。ピックをかけたことによってできたスペースでパスを受け取り、シュートを決めるプレーをピック&ロールという。清水の場合、2度目にかけたピックが成功してできたスペースに入り、藤井からパスを受けてゴールを決めた。


ずっと練習してきたことを、そのまま実現できた喜び。それこそが、車いすバスケを続けている原動力になっているのだという。


■すべての経験が車いすバスケに集約

写真:体育館の床に座り、ボールを両手で上に掲げるストレッチを行う清水選手

2018年5月からメルカリに所属し、アスリート雇用の形で競技に専念できる生活を送る。しかし、車いすを使用する現在も、トレーナーとしての仕事は継続している。月に2日ほどだが、整形外科の病院に併設されているトレーニング施設でパーソナルトレーナーとしての役割を担う。

「ケガや関節の病気の患者さんの中には、メンタルが落ちてしまっている人が多い。私自身、病気が発症したことで障害を負った。車いすバスケをやっていて、できることが増えていくことに喜びを感じたように、何か一つできるようになると、じゃあ次も頑張ろうと思えるんです。トレーニングを通じて、できることを増やしていく体験を少しでもしてもらえたら、と思っています」

写真:ストレッチ機器の上に右上半身をあずけ、右腕を伸ばしながら笑顔の清水選手

前を向くようになると、女性ならメイクをしたりヘアスタイルを変えたり、変化が現れる。その役に立てることが、自分の喜びにつながる。一方で、トレーナーの仕事を継続しているからこそ、自分の体の変化を見極める目や、強化する方法を探ることもできる。トレーナーの仕事はプレーヤーの自分を支える基礎でもある。

サッカーで活躍していたときにも、大きな試合の前に足が震えるような経験をした。東京パラリンピックは、夢の舞台。

「そこに立たなければ見えない景色があるのだろうと、ワクワクしています」


サッカーでも、車いすバスケでも、基本は同じ。オフェンスでは前を向いて、ゴールを決めること。ディフェンスでは相手に前を向かせず、ボールを奪うこと。

「JAPANサッカーカレッジで学んだことが、身についています。サッカーの経験も、専門学校での勉強も、トレーナーとしての仕事も、全部、車いすバスケに生きています」

車いすバスケを始めて5年。

「郁美に聞くと、“15年くらい続けてきて今が一番楽しい”って言うんです。そういう経験を積んで、もっともっと車いすバスケを追求したいです」

写真:車いすバスケットボール女子日本代表チーム5名がコートにそろう

2019年8月 左より、清水千浪、萩野真世、 網本麻里、北間優衣、藤井郁美


東京パラリンピックの、さらにずっと先へ。一つひとつの経験が、そのまま車いすバスケに集約されていく。


(清水選手へのインタビューは2020年2月上旬に行われました)

スポーツライター 宮崎恵理

スポーツライター 宮崎恵理(みやざき・えり)

出版社勤務を経て、フリーのライターに。1998年の長野パラリンピックを機に障害者スポーツの取材に携わり、「Tarzan」「スポーツグラフィックナンバー」など雑誌やインターネットメディアで執筆。12年ロンドンパラリンピック、14年ソチパラリンピックではNHK開会式中継解説を担当した。著書に『心眼で射止めた金メダル』『希望をくれた人』『みんなちがって、それでいい』。日本スポーツプレス協会理事、国際スポーツプレス協会会員。

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