第45回 櫻井誠一(競泳)「エクスクルーシブ(排除)しない社会へ」

競泳 2020年8月24日
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2016年6月 リオパラリンピック 日本代表選手発表会見より


日本身体障がい者水泳連盟の常務理事、技術委員長を務め、日本パラリンピック委員会の強化委員会副委員長を兼任する櫻井誠一氏。パラ競泳に携わるようになった端緒は1980年という。実に、40年にも渡って、パラスポーツに貢献してきた。延期になったが、1年後に開幕する東京パラリンピックでは、日本選手団副団長に内定している。まさにパラスポーツの重鎮である。

東京オリンピック・パラリンピックのビジョンに「東京大会を契機とした共生社会の実現」が掲げられている。「インクルーシブ」という言葉を耳にする機会も増えた。共生、包摂を意味する英語である。「インクルーシブな社会」が、東京大会の大切なレガシーの一つになる、と言われている。

櫻井氏は、東京大会のレガシーについて、次のように語る。
「インクルーシブの意味するところは“エクスクルーシブ(排除)”しないこと。インクルーシブというと、どうすべきかが見えにくいが、エクスクルーシブ(排除)しているかどうかという視点で物事をとらえるようにすると、様々なことが明確になってきます。そういう視点を、東京パラリンピックを契機に浸透させていくことができれば、それが大きなレガシーになる、と考えています」

その思いに至ったのは、神戸市役所の職員でありながらパラ競泳に従事してきたというキャリアによる。その心象に迫ってみたい。



■フェスピック神戸大会が第1の契機

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水泳指導をする櫻井氏(右)

1949年に兵庫県で生まれた櫻井氏は、少年時代には明石や舞子の海で泳ぎを覚えた。高校に進学して水泳部から勧誘されてバタフライの選手として活躍。卒業後、神戸市役所に勤務し、実業団選手となる。水泳は、櫻井氏にとっては生涯スポーツでもある。

実業団水泳部を通じて、障害者に水泳指導するという話が舞い込んだ。当初は社会貢献として、年に10日間ほど、障害者に水泳を指導するという活動だった。

「当時は、障害者だけではなく、子どもたちの水泳指導も兼任していました。子どもたちは高学年になると、勉強が忙しくなったり、他の興味や活動に目が移ったりしてだんだんとプールから遠のいてしまうことが多い。でも、障害者は雨が降ろうが、何があろうが、熱心に通っていました。障害者に水泳を指導する、というより、同じ水泳の仲間としてずっと続けたいという思いが強くなっていきました」

1989年、現在のアジアパラ競技大会前身であるフェスピック神戸大会が開催された。選手育成・強化の機運が高まり、櫻井氏は、地元で<神戸楽泳会>という水泳クラブを立ち上げる。そこから本格的な水泳指導が始まった。

「初めて障害者の水泳を見た時に『なぜ、こんなにしんどい泳ぎ方をしているのだろう』と思った。もっとラクして泳げば、自然とスピードが上がるはずだとね。水とけんかをしないこと。水に合わせて泳ぐ。そのための方法が、障害によって異なるだけだ、と」

<神戸楽泳会>は、「楽しく泳ぐ」と、「ラクして泳ぐ」をかけあわせて命名されたのだった。競泳選手として活躍し、そのノウハウを障害者の指導に生かせる。櫻井氏の熱心な指導で、神戸楽泳会の選手たちはみるみる上達していった。

「指導の一環として、リレー種目に力を入れました。水泳は個人種目ですが、チームとしてのモチベーションが上がると、個人の成績や記録は比例して伸びていきます。実業団でやっていたことを、そのままパラ競泳にスライドさせました」

とはいえ、神戸楽泳会に集う選手たちの障害は、まさに十人十色。

「それこそ、医学書を紐解いてリハビリテーションについても勉強しました。障害に応じて、どう体を動かすべきかを実際の指導の中で構築していったんです。でも、勉強するほどに、今度は、自分の泳力にもいい影響が出てきた。体の動かし方、呼吸のタイミングなどのバランスが自然と整えられていったんですね」

フェスピック神戸大会は櫻井氏の水泳指導での上でも大きな契機になったが、もう一方で、大会を運営する行政としての経験が、現在につながっている。

「今でこそ、パラスポーツの大会がイベント的に開催されることも当たり前になりましたが、当時は、障害者の社会参加に重きを置いた行事でした。それを、このフェスピック神戸大会では、非常に華やかなイベントとして企画した。当然、役所内でも反発がありました。“障害者を見せ物にするのか”とね。それで、当事者である障害者に聞いたんですよ。どんな大会にしたいか、と。そうしたら、“華やかな舞台に出場したい”、“自分たちの競技をいろんな人に見て欲しい”と。それで決まりました」

フェスピック開催後、当時の神戸市長の英断で、福祉センターにプールが増設されるなど、環境も大きく改善された。

「そのプールが、神戸楽泳会の活動の場にもなっています。こういうパラスポーツのあり方を続けていくことも、一つの使命なのかな、と感じました」

神戸市内には、フェスピックによって水泳だけでなく、車いすテニスやパラ卓球でもクラブが創設され、女子車いすバスケットボールの日本選手権大会が継続して行われている。国際大会のレガシーを、櫻井氏は自身の肌で実感しているのである。



■欧米では地域クラブで展開されるパラスポーツ

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パラ競泳日本代表合宿にて、鈴木孝幸選手を指導する櫻井氏

フェスピック以降、日本身体障がい者水泳連盟の活動に携わるようになり、1994年にマルタ島で行われたパラ競泳の世界選手権を皮切りに、96年のアトランタ大会からパラリンピックにも帯同している。リレーを重視してきた櫻井氏にとって、2004年アテネ大会で、日本女子チームが当時の世界記録を樹立して優勝したことは忘れられない思い出だと語る。

「しかし、パラスポーツのエポック(新時代)としてのパラリンピックということでは、やはり2012年のロンドン大会は外せません。この時には日本パラリンピック委員会の視察員として現地にいきました」

ロンドン大会以降、パラアスリートのエリート化は、世界的に進んだ。

「欧米やオーストラリアでは、地域クラブがスポーツの中心になっています。そこには、それぞれのスポーツの専門家がいて、そのコーチが健常者も障害者も関係なく指導しています。世界選手権などでそういうコーチに会うと、彼らは一様に“私は水泳コーチのプロなので、誰でも指導します”と言いますよ。そのコーチが、国を飛び出して他国で指導することも珍しくない。日本は、今も学校教育が基本なので、スポーツのプロではなく教師が指導することが多い。特に障害者の場合、学校や福祉を通じて社会参加やレクリエーションとしての場はありますが、選手育成というルートが少ないのが現状です」

東京パラリンピック開催が決定し、2019年にはナショナルトレーニングセンターでパラアスリートが練習できる環境が整った。

「エリート選手の、頂点のところだけを見れば世界に誇れる環境ができました。ただ、すそ野の部分から頂点に至るまでのルートが、オリンピックのようには整備できていません。例えば、国体に障害がある選手も出場できるようにして、各都道府県の成績にパラアスリートの成績が加味されるようになれば、すごくすそ野が広がっていく可能性があると考えます」



■障害者の社会復帰と災害復興の共通点

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2016年9月リオパラリンピック 神戸楽泳会出身の山田拓朗選手(左)の銅メダルを喜ぶ


フェスピック神戸大会とともに、櫻井氏の活動に大きな影響を与えた出来事として、阪神淡路大震災があるという。被災後、神戸市役所の生活再建本部に所属し、業務に携わった。

「災害からの復興と、障害を負って社会復帰を果たすことは、実は同じプロセスなんです。復興と言うと、インフラが回復する、家が建つことに象徴されますが、実際には、その上で、かつて自分がつながっていた人と、もう一度つながること、そして、自分がかつて楽しんでいた文化的なこと、スポーツや趣味をもう一度心から楽しめてこそ、初めて復興した、と実感できるんですね。それは、障害を負った人も同じです。生活できる環境が整うだけでなく、人との絆やスポーツ、文化を取り戻すことによって、社会の一員として自分自身を認められるようになる。私は、障害者の活動に携わっていた経験から、それを生活再建プログラムに応用できた。プログラムは、その後、各地の災害でも活用されています」

ことし、世界的に広がった新型コロナウイルスによる生活の影響にも共通すると語る。

「外に出られない、プールでの練習ができないところから、制限されながらもプールでのトレーニングができるようになってきた。その間、連盟が選手たちと共有してきたのは、動画で一人ひとりの活動や個人のトレーニングをつなぐことでした。トレーニングチャレンジのような感じですね。順番にそれぞれの活動を紹介し、コーチもそこに反応して声をかける。練習が再開した時に、つながっていたという感覚が、ベースになるように」



■パラリンピックは、人間の可能性にチャレンジする大会

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2019年9月 ジャパンパラ水泳競技大会にて、橋本聖子大臣(中央)にパラ競泳を説明


櫻井氏が見続けてきた、パラスポーツの40年間。日本の社会は、どう変化してきたのだろうか。

「40年前と比較すれば、人々の理解は大きく進みました。障害者に対する差別意識は少なくなってきたと思います。今、街中で車いすに乗っている人を見かけても違和感はありません」

それでも、と言葉をつなぐ。個人としては理解があっても、それが社会、世間となると壁が生じることがある。

「それを変えるきっかけになるのが、東京パラリンピックです。パラリンピックは、人間の可能性にチャレンジする大会です。人は、みな可能性を持っている。その可能性を閉さない。そういうチャレンジが見られるのが、パラリンピックなのです」

フェスピック神戸大会や、災害をきっかけに、人々の意識に変革がもたらされた。

「エクスクルーシブ(排除)しない社会。かつての日本は障害者を隔離していたんですね。それが社会的な違和感になっていた。40年かけてそれはなくなりつつある。でも、もう一歩、前に進めていく。私自身は、微々たる力ですが、障害者の存在や可能性を、それを知らない人に伝えていく活動を継続していきたい。知ることで変わっていくことは、たくさんありますから」

2021年8月24日、東京パラリンピックが開幕する。

「1年延期になったからと言って、アスリートたちはまだまだ十分な練習はできていません。パラ競泳でも感染者を一人でも出さないように、細心の注意をしながら取り組んでいますが、見えない敵との戦いだけに、長期戦になればなるほど、神経戦になります」

決して楽観できない状況は、まだまだ続く。

「そんな中、しっかりと目標を定めパラリンピック大会当日に素晴らしいパフォーマンスを見せて勝利するためには、練習と同時に実践のレース経験が必要です。日本代表選考戦を2021年5月開催のジャパンパラ水泳競技大会として設定。その前の3月には第37回日本パラ水泳選手権大会を実施するなどの計画を進めています」

東京大会が近づいて来れば、再び日本の、世界の注目が、東京に集まってくる。

「その時に、多くの皆さんがパラ競泳に関心をもっていただけるよう、パラ競泳の歴史や魅力、見どころ、豆知識などを整理して、ホームページで展開する準備を進めています」

アスリートはもちろん、スタッフも、そして櫻井氏自身も、東京パラリンピックを契機とするレガシーをしっかり残すために。プラス1年を、櫻井氏はひたすら歩む。


写真提供/ 日本身体障がい者水泳連盟、櫻井誠一氏



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パラリンピック、かかわる人々~日本身体障がい者水泳連盟 櫻井誠一さん~(2017/12/8)

スポーツライター 宮崎恵理

スポーツライター 宮崎恵理(みやざき・えり)

出版社勤務を経て、フリーのライターに。1998年の長野パラリンピックを機に障害者スポーツの取材に携わり、「Tarzan」「スポーツグラフィックナンバー」など雑誌やインターネットメディアで執筆。12年ロンドンパラリンピック、14年ソチパラリンピックではNHK開会式中継解説を担当した。著書に『心眼で射止めた金メダル』『希望をくれた人』『みんなちがって、それでいい』。日本スポーツプレス協会理事、国際スポーツプレス協会会員。

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