第46回 藤田征樹(自転車)「未知数の地平に」

自転車 2020年10月1日
写真:リオパラリンピック パラサイクリング ロードレース中の藤田選手

2016年9月 リオパラリンピック 自転車 ロード 男子 タイムトライアル C3より


21世紀に入り、パラリンピックでは、競技に特化したスポーツ義足の開発が一気に加速した。2008年、藤田征樹は初出場した北京パラリンピックで、トラック1kmタイムトライアル、個人追い抜きの2種目で銀メダル、ロード・タイムトライアルで銅メダルを獲得。12年のロンドン大会ではロード・タイムトライアルで銅メダル、16年リオ大会でもロード・タイムトライアルで銀メダルを獲得。さらに、09年にはトラック種目で、15年にはロードで世界選手権優勝を飾り、チャンピオンだけが着用できるアルカンシエル(レインボージャージ)を、2度手にしている。

藤田は、競技用義足を活用した日本初のパラリンピック・メダリストであり、現在もパラサイクリングを牽引するトップアスリートである。


■義足でトライアスロンに挑戦

写真:トライアスロンレースで走る藤田選手


藤田征樹は、1985年に北海道・稚内に生まれた。大学2年の夏に帰省中、交通事故で両足のひざ下を切断した。

藤田は、入院中から「義足でスポーツをする」ことを考えていたという。リハビリを終えて退院した直後、日常用の義足でロードレーサーにまたがると思いの外スムーズに走らせることができた。リハビリ用義足を作製した義肢装具士から「スポーツ用義足を作るなら」と、東京にある鉄道弘済会(義肢装具センター)を紹介された。ここで、藤田の義足作りを担当したのが、齋藤拓(さいとう・たく)氏である。この時は、事故前、大学2年で始めたトライアスロンに出場することが、スポーツ用義足を作る目的だった。

「初めて陸上競技用の義足を借りて走ったら、跳ねるように走ることができて、すごく楽しかったという記憶があります」

走る義足、水中で泳ぐための義足を作り、一般のトライアスロン大会に出場。さらに、ニュージーランドで開催されたアイアンマンレースにも挑戦、3種目226kmを完走した。このアイアンマンレースに出場するために、初めて自転車用義足を作製する。見本も手本もない。まさにゼロからのスタートだった。

2007年、トライアスロン強化の一環として、パラサイクリングに取り組む。トラック・タイムトライアルのレースに出場すると、その能力の高さから日本代表選手として世界選手権への出場を打診された。そうして、初出場した世界選手権の1kmタイムトライアルで2位をマーク。この経験を機に、藤田は一気にパラサイクリングへと軸足を移したのだった。


■義足は機材であり、体でもある

写真

写真:義肢装具士の齋藤拓さん(左)と藤田選手(右)


「僕にとって、競技用義足は、自転車に乗るための機材であり、自分の体でもあります。両方の面がある」

義足は、エンジンのコネクティングロッドのように、ひざとペダルを接続する“機材”。しかし、動力は藤田の体が生み出す運動である。トレーニングによって自分の体を鍛えることはできるが、義足は鍛えることができない。自分の体が変化すれば、その変化に対応して、それまでとは異なる義足が必要になる。

「体力や競技のスキル、レベルが上がっていく過程で、新たにこういう義足であって欲しいという思いが生まれる。それを次の義足作りに生かしていくわけです。自分の競技向上のタイミングで齋藤さんと義足を進化させていきます」

現在、茨城県内の義肢装具会社に勤務する齋藤は、言う。
「単にモノとしてテクノロジーを結集させた義足を作れば、それがそのまま選手の記録に直結するというわけではありません。違和感なく、練習やレースに集中できる義足を提供することで、選手は記録や限界に挑戦できる。そういう義足を作ることが、僕の使命です」

齋藤は、藤田が北京パラリンピックを目指してパラサイクリングに取り組み始めた頃から、パラサイクリング日本チームの義肢装具メカニックを兼務する。

「痛みなどがなく、高強度のトレーニングに集中できる義足」を作り、調整を重ねるという義肢装具士としての姿勢は、藤田の義足作りとともに培ってきたのだという。

「工学的な専門知識の高い藤田選手からの要求やアイデアは、細部に至るまで、様々にあります。それを、とにかくいったん全部受け止める。正直、“無理ではないか”“メチャクチャだ”と思うこともある。でも、必ずトライして、藤田選手に実際に使ってもらいます。それで初めて答えが出る」

藤田にとって、競技用の義足は、自転車を漕ぐための機材でありながら、藤田自身の“足”。自分の成長・進化だけが、次の義足に必要な要素を決める。藤田が感じ、求めるものを、齋藤が形にしていく。

トレーニングで自分の能力を進化させることも、より性能の高い義足を作ることも、全ては、未知数。1歩ずつ進んで、到達して、答えを見つけていく。それを、義足のパラサイクリング選手として、ずっと継続してきたのだ。


■初めて手にした競技環境


初出場した北京大会の翌年、藤田は、東海大大学院を卒業すると、建設機械メーカーにエンジニアとして就職。フルタイムで就業するようになる。リオ大会まで、社会人とアスリートという二足のワラジを履きこなしてきた。遠征や合宿などは出張扱いとして快く競技に送り出してくれたが、平日勤務では残業も当たり前。終業後、屋内でのローラートレーニングを中心に、休日にロードワークをこなす日々が続いていた。3大会連続のメダルは、そんな競技生活から掴み取ったものだった。

その藤田が、19年4月、転職した。現在の所属先である藤建設は、地元・北海道稚内市にある企業である。競技に集中できる環境を初めて得た。

13年に東京オリンピック・パラリンピック開催が決定してから、パラアスリートの競技環境は劇的に変わってきた。プロフェッショナルとして活躍する選手、アスリート雇用などで競技に専念できる選手の数は急増した。

「競技に専念できる生活は、選手にとっては、一つの理想型ではあると思います。でも、果たしてそれが自分にとって100%正しい道なのかどうか。仕事との両立でしか得られないものがある、ということをずっと感じながらの10年間でしたから」

それでも、転職を決めた背景にあるのは、1年後に迫っていた東京パラリンピックだった。

「生まれ育った地元の企業ということで、すごく応援していただいている。頑張りがいがあります。東京パラリンピックの舞台に立つまでに、あんなこともやってみよう、こんなことにもチャレンジしたい、ということを考えた時に、競技に集中できる環境に身をおきたいと、転職を決めました」

転職後、生活は激変した。
「日のある時間にロードワークができるようになったことが一番大きいです」

蓄積してきたデータをもとにトレーニングを振り返る。あるいは義足について進化すべきポイントを見直すなど、パフォーマンス向上のための時間を、より費やすことができるようになった。
「それに、子どもと過ごす時間も増えました」


■新たなトレーニング、バーチャルサイクリング

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トレーニングに取り入れているバーチャルサイクリングの映像より

藤田は18年8月、イタリアの世界選手権遠征の際、現地でのトレーニング中に落車し、左前腕を骨折する大けがを負った。転職する直前に競技に復帰。充実した練習環境で1年間を過ごし、2020年に入って受傷以前よりもコンディションが上がってきた、と実感していた矢先、新型コロナウイルスが世界的に拡大。3月24日に、東京大会の1年延期が決定した。

自転車競技では、合宿以外は、黙々と己のたてたトレーニングスケジュールに沿って一人練習することが多い。緊急事態宣言が出された後も基本的に、そのスタイルは変わらなかった。

「ただ、外出自粛期間中は、外に出るロードワークは避けて、屋内でのローラートレーニングが中心でした」

自粛期間中、トレーニングに取り入れたのは、バーチャルサイクリングだ。ローラートレーニング中のペダル回転数や動力などの情報をソフトウェアに発信し、それをもとにアバターを走らせる。あたかも、一般のロードを走っているかのように仮想空間でサイクリングができるというものだ。コースのアップダウンに連動して、ローラーの負荷を変化させることもできる。

「仮想空間には、世界中のサイクリストがアクセスしています。例えば、日本で休日の午後の時間に走っていると、ヨーロッパは午前中で、サイクリングを楽しむ人が大勢走っている。僕も仲間と一緒に走ったり、レースなどのイベントに参加したりしています。自粛期間中から始めたのですが、もっと早くから導入すれば良かったと思うくらい、楽しんでトレーニングができました」

実際には、緊急事態宣言が解除されてからは、これまで通りロードワークを再開。バーチャルサイクリングは、進化したローラートレーニングとして継続させている。


■4年に1度の集大成

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2016年9月 リオパラリンピック 自転車 男子 ロード C1-2-3


過去のパラリンピック3大会で、ロード種目では毎回メダルを獲得していることから、ロード種目に強い、という印象がある。藤田自身は、「トラックではタイムを突き詰めることがシンプルに難しく、ロードレースでは走ることにプラスして、天候やコースプロフィールなど環境に対応することも難しい。それでも、どちらも楽しいと感じています。ロードと、トラックの個人パシュートには共通する要素が多く、意識的にトレーニングしています」と語る。
東京大会のロードレースは、静岡県の富士スピードウェイで行われる。

「コースはアップダウンが繰り返されるので、抜け出すチャンスも、反対に抜け出されてしまうリスクもある。そういう中でのふるい落としが、カギになるのかなと思っています」

東京大会は、藤田にとって4度目のパラリンピックである。

「毎年開催される世界選手権では、チャンピオンには、アルカンシエルという特別のステイタスが与えられます。15年のロードレースでの優勝は、やはり記憶に強く残る、思い入れのあるレースでした。一方、パラリンピックは、世界選手権とは全く別の重みがある」

藤田にとって、過去3回のパラリンピックは、いつも “集大成”であったという。

「パラリンピックは4年に1度の大会。その大会までにできることを全力で尽くして臨むだけ。だから、いつも集大成だと思っていました。過去3大会では、それぞれ全力を出し尽くしたという手応えはあります。出し尽くして、その先にまだ自分はできる、という思いがあって、次のパラリンピックを目指してきました」

ロードレースは、未知の要素が多い競技だと、藤田は語る。コース、天候、選手同士の駆け引き、展開。そして、レース当日に至るまでの準備は、これでベストなのか。使用する義足の調整はこれでいいのか。レースが終わるたびに、次のレースまで、また新しい日常が始まる。

「日々、自分を追い込み、律する。そういう中でうまくいかないことも、つまずくことも、落車してけがすることもある。そういう時に、自分がたてた目標に向かって自分が進んでいくのだと、自分を信じること。心が折れそうな時にも、自分はこれをやるんだ、できるんだ、と信じることが続けていく原動力になるのではないかと思っています」

答えは、用意されたものではない。突き進む先に、見えてくるものである。練習も、義足の開発も、誰もやったことのない荒野に足を踏み出すことで、その手応えを得ているのだと、藤田は語る。

レジェンド藤田の前に広がる、パラサイクリングの地平。東京パラリンピック開幕までの1年という時間、藤田は、粛々と己の信じる道を歩んでいくだけである。

スポーツライター 宮崎恵理

スポーツライター 宮崎恵理(みやざき・えり)

出版社勤務を経て、フリーのライターに。1998年の長野パラリンピックを機に障害者スポーツの取材に携わり、「Tarzan」「スポーツグラフィックナンバー」など雑誌やインターネットメディアで執筆。12年ロンドンパラリンピック、14年ソチパラリンピックではNHK開会式中継解説を担当した。著書に『心眼で射止めた金メダル』『希望をくれた人』『みんなちがって、それでいい』。日本スポーツプレス協会理事、国際スポーツプレス協会会員。

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