第47回 山﨑晃裕(陸上)「2019年の試練の先に」

陸上 2020年10月19日
写真:大会でやりを投げる山﨑選手

2020 パラ陸上 日本選手権 男子 やり投 F46 決勝

2020年9月5、6日。埼玉県熊谷スポーツ文化公園にある陸上競技場でパラ陸上競技の日本選手権が開催された。5月に実施予定だったが、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い延期。4か月遅れの開催だった。本来、東京パラリンピックが盛大に開催されているはずの時期、パラスポーツの公式競技大会としてはコロナ影響下での初の実施となった。

山﨑晃裕は、5日に行われたF46(上肢障害)やり投げに出場。最終試技となる6投目で60m09をマークし優勝した。

「ウォー!」
5回目まで、淡々と投げていた姿から一転、両腕を突き上げて喜びを爆発させた。

2018年5月に北京グランプリで出した自己ベスト60m65には届かなかったが、2年ぶりに60mを超えた。
「2019年はどん底でした。パラ陸上に転向して5年。初めて試練を乗り越えた日本選手権でした」


■小学3年で野球を始める

写真:大学のグラウンドで槍を持つ山﨑選手

山﨑晃裕は、1995年埼玉県に生まれた。先天的に右手首から先がない。小学3年の時に、母と一緒に地元西武ライオンズのホームゲームを見に行った。初めての野球観戦。そこで見た選手たちの躍動感に衝撃を受けて、野球を始めた。

山﨑は、グローブを右手につけることができない。左手でボールをキャッチした後、素早くグローブを外し、同時に左手にボールを持ち替えて投げる。このグラブスイッチのスタイルで、高校まで野球を続けてきた。

高校3年の夏、最後の埼玉県大会。7回裏2アウト満塁の場面で、山﨑は代打としてバッターボックスに立った。
「一打逆転のチャンスですが、しくじれば高校の夏が終わる。そんな重要な場面で、監督は片腕の僕を出してくれました」

自分の心臓の音が聞こえそうなほどの緊張感の中、山﨑は2塁打を放ち、チームは2点を挙げ逆転。そのまま逃げ切って、勝利をつかみ取った。

「高校の県大会でもピッチャーの投げるボールは時速130、140kmになります。僕は、左手でバットを持ち、インパクトの瞬間に添えている右手でぐっと押し込むようにして打つ。それは片腕である僕だけが作り出したスタイルで、左手1本でしっかり握るためにも、右手で押し込むためにも、フィジカルトレーニングが大事だと、3年間、筋力トレーニングを積んできました。それが、夏の最後の場面で生きました」

人生初の成功体験と語る、2塁打。そこに至るまでの努力と工夫は、パラ陸上に転向した今でも生きているのだという。


■野球経験を生かしてパラ陸上へ

写真:左腕でやりを投げる直前の山﨑選手

2014年、高校野球を引退した山﨑は障害者野球を始める。その年、4年に1度開催されるWBC(世界選手権)が兵庫県で開催され、山﨑は1番レフトとして出場。5か国による総当たり戦で、日本はアメリカに次ぐ準優勝、山﨑は大会最優秀選手賞を受賞する活躍を見せた。

パラ陸上に出合ったのは、WBCの1年後。障害者スポーツの発掘イベントがきっかけだ。
「当時、障害者野球をもっとメジャーなスポーツにしたいと考えていました。でも、どこに行っても、誰に聞いても“障害者野球って、何?”と言われてしまう。スポーツとして広く人に認知されていることは、大事な一つの価値である、ということを痛感していました」

東京オリンピック・パラリンピック開催が決まっており、パラリンピック実施競技の認知度は高まっていた。
「自分がパラリンピック競技で活躍できれば、障害者野球もそれに伴って認知度が上がるのではないか。当時は、野球の普及がパラ陸上に転向する目的だったのです」

やり投げなら、野球で培ってきた肩、技術が生かせる。そう直感し、一人、障害者スポーツセンターに出向いて投てきの練習をスタートさせた。
「小学生の頃、片腕で野球ができるかどうかもわからないまま、ボールとバットを持ってとにかく始めた。その時と同じです」

そんな山﨑にやり投げを指南したのが、現在、パラ陸上競技連盟・協会委員会投てきパート長を務める佐藤直人氏だ。
「忘れもしません。雨の日、初めて会ったばかりの僕に、やり投げのイロハを教えてくださいました」

2016年から佐藤コーチの母校である順天堂大学で練習できる環境を得る。乾いた砂が水を吸い込むように、山﨑は急成長していった。


■義手、補助具を作って練習

写真:障害のある右腕に義足を付ける調整をする山﨑選手

野球のボールの重量は120g程度、やりは800g。ボールは球体、やりは2.8mもの長さがある。やり投げには助走を伴う。同じ“投げる”スポーツと言っても、その技術も使う筋肉も異なる。

「やり投げという競技そのものの理解も全然ありません。とにかく陸上競技に携わる人に、片っ端から聞きまくりました。元来、人見知りが強くて、知らない人に声をかけるなんてことはできないのに(笑)」

パラ陸上で出逢った、同じ上肢障害の選手たちからは、トレーニング用義手などの補助具を使うというアドバイスを得た。2016年、シーズンが終わると、新たに義手、装具を使ったトレーニングを開始する。

「それ以前から、例えば、ベンチプレスでは障害のある右手で微妙にバランスをとりながらトレーニングすることはできていました。でも、両手で引く、という動作ができないため、広背筋や脊柱起立筋など背中の筋肉や右腕を鍛えることができていませんでした」

写真:両腕でバーベルを上げる山﨑選手

つかんで引く動作ができる義手を使って重量のあるバーベルを両手で引き上げるローイングなどのトレーニングや、補助具を使って懸垂を行うなど、これまでに着手してこなかった練習ができるようになる。

「固定できる義手を使えば、100kgを超えるバーベルを使ったトレーニングも安心して行えます」

義手、補助具の活用で、トレーニングの質が格段に上がった。陸上を始めた直後、無理なトレーニングによって左肘の故障に悩まされたが、トレーニングが改善されたことで、故障の解消にもつながったという。


■障害に向き合い“山﨑流”を確立

2017年5月にパラ陸上の投てきアドバイザーに就任した石井田茂夫氏の指導で、山﨑は一気に躍進する。

「石井田先生から言われたのは、やり投げの動作において体の軸がぶれる、ということでした」
助走する際も、やりを投げる時にも、無意識に右肩が浮き上がり、重心が左に偏ってしまう。手首から先がないというだけでも、右腕の重さが左腕と異なることが主な原因だった。

「それまでの僕は、陸上競技における一般的なやり投げの技術を追求してきたわけですが、石井田先生からは、僕自身の障害である、片腕での動きや体のバランスの特徴をもっと理解して独自の動きを追求しろ、とアドバイスされました」

そこで取り入れたのが、“投げる動作の前に、右肩を落として首を右に傾ける”というルーティンだ。右への重心を意識したことによって、やりをリリースする際にしっかりと右足に体重をのせることができるようになったという。

“山﨑スタイル”を確立したことで記録が伸びていく。故障明けのシーズンだった2017年、初めて出場した世界選手権では53m55で5位。そうして、翌2018年5月の北京グランプリで自己ベストの60m65をマークした。


■どん底の2019年

写真:投てき後にグラウンドに手をつく山﨑選手

2019年11月 世界パラ陸上競技選手権 男子 やり投 F46 決勝 投てき直後の山﨑

ところが、東京パラリンピック前年の2019年、突然、山﨑は減速する。

「練習でも思うように投げられない。東京パラリンピックまで1年というタイミングで、周囲からの期待も大きくなる、記録は伸びないのにメディアからも注目される。プレッシャーを痛感していました」

東京大会の出場枠がかかるドバイの世界選手権を前に、1か月間、全く投げられない日々が続いていた。
「誰にも相談できず、一人孤独に悩み続けていました」

伸び盛りだったとは言え、ずっと右肩上がりで好調をキープできるほど、陸上競技は甘くない。
「今から振り返れば、2019年は停滞して、自分の負の側面を全部出し切る時期だったのではないか、と思うんです。でも、当時はとてもそうは思えなかった。結果だけに固執して、自分を冷静に見ることができずにいました。だから、競技でも、闇雲に感情だけを爆発させていたところがあった」

ドバイでの世界選手権。F46のやり投げは、現地時間11月10日午後6時に始まった。山﨑は1投目で出した55m21の後、記録が伸びず7位。
「感情のリミッターを外して、大声出して投げていました。そんなことをしても、記録にはつながらないのに」

強がって言う『頑張ります!』の言葉が、試技の間じゅう、山﨑の耳に白々しくリフレインしていた。競技が終わり、ぼう然自失のまま宿泊先に戻ると、山﨑はそのままソファの上にへたり込んだ。
「ユニフォームもゼッケンもつけたまま。放心して、気付いたら翌朝になっていました」


苦しいシーズンが終わり、冬季練習の時期に入ると、まもなく新型コロナ感染症が世界的に拡大していった。

「2019年は、どうしようもなく弱い自分と正面から対決していました。でも、ただ向き合っていると、弱い自分しか見えない。視野が狭くなってしまうんです。そうではなく、弱い自分を受け入れて、肩を組んで前を見よう、と」
長い、長いトンネルの中で、ひたすら自分に対峙した中で得た、一つの答えだった。

3月24日に、東京オリンピック・パラリンピックの1年延期が発表される。
「不謹慎かもしれませんが、日本がピンチの時に、自分にとっては、これはチャンスだと思いました」


■復活の日本選手権から東京パラリンピックへ

写真:投てきをする山﨑選手の後ろ姿

緊急事態宣言が出され、競技場やトレーニングジムなどでの練習はできなくなる。
「そんな時、石井田先生から『持ち味である 腕の“しなり”を取り戻すために、振り切りの良さを出す練習をしてみろ』とアドバイスいただいた」

パラ陸上を始めたのは、幼い頃から野球で培ってきた“投げる技術”があるからだ。持ち味である腕の“しなり”を、長年、野球で培ってきた。その野球のことを、パラ陸上を始めてからすっかり忘れてしまっていた。

「僕の持ち味は、腕のしなりによる振り切りのよさ。それを思い出すために、自粛期間中、近くの河川敷に行って軽い石を遠くに投げるということを、一人で繰り返しました」

軽い石を遠くに投げるには、石を軽く握って腕のしなりを使う。軽いものを速く、遠くに投げる練習によって、腕の振り切りの神経的な回路を、再び体に呼び覚ます。また、佐藤コーチとキャッチボールの練習も行った。こうした練習を動画で撮影し、石井田コーチに送信する。ひたすら、“投げる”練習に集中した。

7月28日に、投てきチームの合宿が再開。改めてやりを投げた時に、「これは、いける!」という確かな手応えを感じたという。

8月に入り、勤務する順天堂大学の記録会に参加。59m12という自身のセカンドベストを投げた。さらに、8月23日には、千葉県選手権で59m51。そうして、9月5日の日本選手権では、2年ぶりの60m超えを実現させたのだった。

「ドバイの世界選手権の時に比べれば、助走のスピードはそれほど上がっていません。でも、やりをリリースする時の腕の振り切り速度はめちゃくちゃ上がっていたと思う。それが、記録につながりました」

ドバイでの試技とはうってかわり、冷静に淡々と、投げた。
「記録は伸びる、という確信がありました。4投目で高橋(峻也)選手に一度記録を抜かれた時にも、巻き返せると信じていました。そして、実際に5投目で逆転、6投目で60m。試合していて、楽しかったですよ」

写真:笑顔の山﨑選手

パラ陸上に取り組むようになってから、山﨑は毎日、練習ノートをつけている。日々の練習内容や強度はもちろん、その時に思い描いたイメージ、体の動き、助走の仕方など、克明に記す。合宿や遠征先にも持参する。A4版のノートは、すでに10冊を超えた。
「苦しんだ時には過去の自分が助けてくれますし、今記述していることは未来の自分へのアドバイスになる」

自粛期間中、ノートを開いた。苦しかった1年、心に余裕がなく力んでいた自分を再確認。持ち味を取り戻したことで、力みのない状態を作ることができた。ノートに記された過去の自分に力をもらって臨んだ、日本選手権でもあったのだ。


たかが60m、されど60m。

「実際には、60m09という数字は、記録としては大それた結果ではありません」

1年間の試練の果てに、自分を取り戻してつかみ取った成果だ。

「それでも、自分には大きな1投。パラ陸上競技人生の中で、大きな山を乗り越えた瞬間でした」


自分にとっては“チャンス”と語る、もう1年の先に、東京パラリンピックの舞台がやってくる。自国開催のパラリンピックで、自己ベストを出して金メダルを獲得すること。それは、パラ陸上を始めた時からの目標だ。
「自分を信じること。自分を信じなければ、目標を達成することはできません」

この先、持ち味の腕の振り切りを生かして、どこまで記録が伸びていくのか。

「自分へのチャレンジ。そのワクワク感でいっぱいです。持ち味を忘れずに、ただ集中していくだけです」

スポーツライター 宮崎恵理

スポーツライター 宮崎恵理(みやざき・えり)

出版社勤務を経て、フリーのライターに。1998年の長野パラリンピックを機に障害者スポーツの取材に携わり、「Tarzan」「スポーツグラフィックナンバー」など雑誌やインターネットメディアで執筆。12年ロンドンパラリンピック、14年ソチパラリンピックではNHK開会式中継解説を担当した。著書に『心眼で射止めた金メダル』『希望をくれた人』『みんなちがって、それでいい』。日本スポーツプレス協会理事、国際スポーツプレス協会会員。

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