第49回 北薗新光(柔道)「2015年、覚悟のリスタートから」

柔道 2020年12月14日
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2019年12月 第34回全日本視覚障害者柔道大会より北薗選手(左)


北薗新光は、視覚障害者柔道の選手として、2012年のロンドンパラリンピックに100kg級で初出場し7位に。16年リオデジャネイロ大会では、73kg級で5位入賞した。3度目となる東京パラリンピックには、81kg級での出場内定を決めている。

2020年10月の取材当時、北薗の身長は169.3cm、体重は84.5kg。妻の協力のもと、徹底した栄養管理で日々を送り、道場での柔道の稽古とスポーツジムでの筋力トレーニングを週5日行う。中でも、火曜、水曜の筋トレには3時間を費やす。「涙が出そうになるほど追い込んで」トレーニングに励むと、金曜日にはたいてい4kgほど体重が落ちる。競技大会や合宿などを除く週末、落ちた分の体重が戻り、次の週にまた落ちる。それを繰り返して、平均的に84kgの体重をキープする。

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北薗(右)と同じく、アルケアに所属する陸上・車いす競技の古畑篤郎選手(左)と共に“筋肉を披露"


北薗が、こうしたトレーニングサイクルの生活を送るようになったのは、2015年のこと。この年、結婚し、一般企業勤務の社会人から現在の所属先であるアルケアにアスリート雇用の形で転職した。2015年は、北薗が改めてアスリートとしての新しい一歩を踏み出した、覚悟の年だった。



■自分に得意な形 ―視覚障害者柔道と出会って


北薗新光は、1991年兵庫県に生まれた。幼少期、テレビで見た田村(現:谷)亮子選手の試合に感銘を受け、近所の道場に通うようになる。

「小学校に入学して自分の道着を買ってもらってから、うれしくてうれしくて毎日道場に通っていました」

中学卒業後、柔道の強豪校である兵庫県の育英高校に進学し、当時より重量級の選手として活躍した。高校時代のハイライトは、兵庫県大会のベスト8。
「最後の試合で対戦したのが、当時インターハイ2位の成績を持つ選手でした。ベスト16の対戦相手も、近畿大会で優勝した選手。この2人に対して、すごくいい試合ができた。僕にとっては価値あるベスト8でした」

高校卒業間近、それまで黒板の文字が見えにくいなどの不便を感じていた視力の検査をしたところ、網膜色素変性症と診断された。現在、視力は0.05以下、視野は健常者の1/8程度と言われている。外出には、白杖を使用する。

京都産業大学に進学後、一般の柔道部に所属していたが、部長教員から視覚障害者柔道があると紹介され、パラスポーツの道へと進路を変更した。

視覚障害者柔道の特徴は、選手が互いに組んだ状態で試合が開始されること。組み手争いがなく、試合開始直後からスピードのある戦いが展開される。

「一度、合宿を見学したのですが、その後、いきなり大会に出場することになりました。もともと目が悪いため、一般の柔道をやっていた時にも、(選手同士の体が離れて見えづらい)組み手争いがとても苦手でした。組んだ瞬間からの展開に全神経を集中させていたんです。子どもの頃から、“オレは組んでも、お前には組ませないぞ“という柔道をずっと続けてきました。だから、組んだ状態で始まるというのは、得意な形。これは、自分にすごく合う!と感じました」

大学に進学し柔道部に入部したばかりの頃は、柔道もやりたいが、遊びたい盛りでもあった。柔道をこの先も続けていくのか。疑問を感じていた時期に、視覚障害者柔道に出合ったことになる。

「組み手争いがないパラ(視覚障害者)柔道なら、続けられる。というか、一生柔道を続けるぞ、という気持ちが新たに沸き起こりました」



■「もう一度、ガチで柔道をやりたい」

写真:悔しそうな表情の北薗選手

2012年9月 ロンドンパラリンピック 視覚障害者柔道 男子100kg級で出場し、7位

初の国際大会は、2011年。トルコで行われた世界選手権に100kg級で出場したが、2回戦で敗退し8位。
「世界のレベルは高い、ということをシンプルに感じました。今すぐは無理でも、しっかり練習を積めば、数年後には結果が出せるはずで、その時こそ、世界一を狙えるのではないかと思っていました」

翌12年、大学3年の時、初のパラリピックであるロンドン大会に出場する。
「直前に日本代表が決まったので、現実感がありませんでした。それでも、ロンドンでは、世界選手権とは全く違う緊張感があった。観客もすごく多かったし。でも、当時はまだまだ自分に自信がありませんでした。一生懸命、強そうに見せていましたが、実際には強くなかったですから」

写真:相手選手を抑え込む北薗選手

2016年9月 リオパラリンピックでは、男子73kg級で出場

4年後のリオ大会では、2つも階級を落として出場した。
「実は、ロンドンパラリンピックの後、大学を卒業して一般企業に就職してから、仕事も忙しく柔道のブランク状態だったんです。全然練習していないのに、14年の世界選手権に出場することになって。実際に出場したら、1回戦負け。当たり前ですよ、練習していないのだから。でも、それが、めちゃくちゃ悔しかったんです」

その1回戦敗退が、北薗の心に火をつけた。

「もう一度、ガチで柔道をやりたい」

会社を退職し、新しくアスリート雇用での所属先を得て、練習に専念できる環境を整えた。リオ大会の1年前のことである。柔道の稽古だけでなく、ハードな筋力トレーニングにも取り組むようになった。指導者はもちろん、先輩、時には後輩にも疑問をぶつけ、様々な視点から回答を得る。それを、柔道ノートに書き込んでいく。こうした作業をするようになったのも、2015年からの習慣である。

しっかり結果を残したい。そのために階級を見直した。しかし、リオ大会では81kg級が行われないため、73kg級での出場を目指す。この過程で、徹底したトレーニングと栄養管理で減量も果たした。

新たに競技環境を整えて臨んだリオパラリンピックで、5位。

「今でも夢に見るくらい、悔しいです。所属企業の社長や応援団の方々がブラジルまで駆けつけてくれて、勇気を与えてくれたのに。自分の柔道人生、初めての3位決定戦で負けてしまった。完璧な準備をして、自分のもてるものを全て出し切って負けた試合だったら、その結果が5位なら、完全燃焼できたと思うんです。でも、決してそうではなかった。だから、悔しい」

2015年、覚悟を決めて準備を進めてきたが、やはり時間は足りなかった。73kg級も、本来自分の力が発揮できる階級ではない。次の東京大会には、81kg級で万全の準備を行って臨める。リオ大会以降の4年間こそ、完全燃焼するための努力の期間になる。そう決意するための、リオパラリンピックだった。


81kg級に転向して臨んだ2017年のIBSAワールドカップでは銅メダル、2018年アジアパラ競技大会でも銅メダル、2019年アジアオセアニア選手権では銀メダルを獲得。覚悟を決めてリオパラリンピックを経た北薗の成長は、右肩上がりだ。

写真:相手を払い、大声で叫ぶ北薗選手

2018年10月 ジャカルタ・アジアパラ競技大会 男子81kg級 3位決定戦より


「妻を含め周りのサポートがすごく大きい。妻と子どもたちの前でかっこいいところを見せたいということも、大きなモチベーションになっています」



■「自分を追い込む練習」没頭する理由は


東京パラリンピックの出場内定が決まったが、今年3月に大会延期が決定した。

「様々なアスリートが、“1年間、努力する時間が増えた”というような発言をしているのを聞いて、その通りだな、と思ったけれども、よく考えると、自分は常日頃、全力で努力しているという自負がある。だから、パラリンピックが2020年に行われるか、それが2021年になるか、ということはあまり関係がない、と感じています」

自粛期間中は、道場やスポーツジムでの練習はできなかった。
「およそ3か月間、公園に行って一人で体幹トレーニングをしたり、木の枝に帯をぶら下げて懸垂したり、木の幹にチューブを巻いて一人打ち込みをしたり」

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全身を使うロープトレーニング中の北薗選手

道場やトレーニングジムが再開されると、再び、自分を追い込む練習に没頭する。

「よく、“試合を意識して練習しろ”ということを聞きますよね。自分は、常に練習でも試合をしている、と思っているんです。大会では、試合時間は4分間。真剣に試合すると、1回終わったら肩で息をするくらい、出し切っています。4分間の練習でそのくらい出し切らなければ、練習のための練習になってしまう。4分間を10本、試合に10回臨んでいるつもりで全力を出し切っています」

筋力トレーニングでは、例えばベンチプレスなら115kgを10回、スクワットでは155kgを8回、デッドリフト(下においたバーベルを両手に持ち、そのまま体を起こす動作のトレーニング)に至っては170kgを10回というメニューを、週2回こなすという。
「重量だけを追求しているわけではありません。適正な筋力をつけることが目的ですから」

とはいえ、あまりにもハードに追い込む北薗に、トレーナーが思わず“待った”をかけることも、しばしばだ。
「マックスを挙げたら、頭の血管が切れてしまうんじゃないか、と思うくらい追い込むので“危ない”と」

きつい、つらい練習に取り組めるのは、何より負けた相手が世界に存在するからだ。
「この練習ができなければ、自分が勝てなかった相手が、またメダルを獲得して笑う。過去のそういう記事などを練習前に見て、脳にスイッチを入れます。もう、獣になってますよ!」

2019年からは、呼吸法やヨガなども取り入れるようになった。
「柔道のテクニックに体力、プラス、メンタル。そこがもう一つ足りなかったのかもしれないと気づいて」

組んだところから自分のペースに持っていき、相手に何もさせない。そんなスタイルこそが、自分の柔道の持ち味だと語る。

「だから、すごく嫌がられます」

こちらのペースで相手が怒り出したところで、“それでは、投げさせていただきます!”と、払い腰などの得意技を繰り出す。感情的にさせれば、相手が受ける指導の数も増す。



■人に敬意を払い、結果を求める


来年、30歳。3度目となる東京パラリンピックを迎える。

「これまで2回パラリンピックを経験しているけれども、僕にとってはパラリンピックでも、世界選手権でも、試合は試合、同じなんです。てっぺんにはまだ行っていないけれども、過去の試合については“負けたけれど、失敗ではなかった”と思える。これって“無敵状態”なんですよ」

どんな試合であれ、ただひたすら「全力マックス」で臨む。その中で無心に結果を追い求めていくだけだ、と。

東京パラリンピックでの目標を尋ねると、「自分は目標と言わず、“夢”という言葉を使う」と、言葉が返ってきた。

「自国開催のパラリンピックで、金メダルを獲得すること。そのためには、どうすべきか、どんな稽古を積んでいくのか」

金メダルへの道筋は、しっかり見据えている。ベストの結果を出すためには、自分の決めた道をひたすら進むだけだ。しかし、一方で、こうも考える。

「アスリートだから結果が全て、結果のためには自分勝手でいい、というわけではありません。人に敬意を払う人間でなければ価値がない。普段から、そう思って行動し、トレーニングし、周囲の人、家族にも接しています。その先の、試合の結果です」

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娘の紗輝ちゃんと一緒に


視覚障害者柔道に出合って、一生柔道を続ける、と直感した。現役選手としては、今後10年は歩みを止めない。さらに指導者として後輩を育てることにも興味がある。

「普段練習させてもらっている母校の育英高校で、生徒たちからコーチになってほしいと言われますが、自分としては、無名の高校のコーチとして育英高校の生徒に打ち勝つ選手を一から育てることに挑戦したいです」


もう一つ、やってみたいことがある。
「何の根拠もないのですが、10年後くらいには、自分の目が見えるようになるのではないか、と思っているんです。もし目が見えるようになったら、バイクに乗りたいなあ(笑)」

ちょっとだけ、変わり者。だけど、柔道にはまっすぐ。そんな北薗の柔の道は、どこまでも続いている。

スポーツライター 宮崎恵理

スポーツライター 宮崎恵理(みやざき・えり)

出版社勤務を経て、フリーのライターに。1998年の長野パラリンピックを機に障害者スポーツの取材に携わり、「Tarzan」「スポーツグラフィックナンバー」など雑誌やインターネットメディアで執筆。12年ロンドンパラリンピック、14年ソチパラリンピックではNHK開会式中継解説を担当した。著書に『心眼で射止めた金メダル』『希望をくれた人』『みんなちがって、それでいい』。日本スポーツプレス協会理事、国際スポーツプレス協会会員。

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