第50回 パラリンピアンセッション(前編)「東京大会招致から始まったレガシー」大日方邦子&田口亜希

2021年1月1日
写真:チェアスキーをする大日方邦子氏(右上)、射撃をする田口亜希氏(左下)

大日方邦子氏と田口亜希氏。二人は、日本パラリンピアンズ協会会長と副会長という要職にある。大日方氏はアルペンスキーの選手として1994年のリレハンメルパラリンピックから5大会連続出場、田口氏は射撃の選手として2004年のアテネパラリンピックから3大会連続出場したパラリンピアンだ。大日方氏は2010年バンクーバー大会、田口氏は2012年ロンドン大会後、現役を引退した。

現在は、前述の日本パラリンピアンズ協会のほか、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の顧問や委員をはじめ、様々なパラスポーツ推進活動に携わる。東京パラリンピックを目指してまい進するアスリートに最も近い位置で寄り添いながら、一方で広くパラスポーツ、パラアスリートの存在、魅力を発信し続けている。

パラスポーツの最先端を走ってきた経験と、アスリートを支えパラリンピックを日本に浸透させるという役割の二人が見据える、2021年の東京大会の景色とは。その後の日本に期待することとは。

日本におけるパラリンピックの歴史に確かな爪痕を残しながら、今も前に進む二人の談義に耳を傾けると、パラスポーツの明日が見えてくる。

※この対談は、新型コロナ感染対策に配慮した上で2020年10月上旬に行われました。


■前編目次
誰に聞いても「パ、パラリンピック?」
パラリンピックは格別の舞台
アスリート同士の交流がレガシー

写真

大日方邦子(おびなた・くにこ)写真左/1972年、東京都生まれ。電通パブリックリレーションズ所属。3歳のとき交通事故により両下肢に障害を負う。高校2年でチェアスキーをはじめ、1994年リレハンメルパラリンピックのアルペンスキーに初出場。1998年長野大会では滑降、2006年のトリノ大会では大回転で金メダルを獲得し、2010年バンクーバー大会まで連続5大会に出場し、計10個のメダルを獲得。現在の主な役職は、日本パラリンピアンズ協会会長、日本障がい者スポーツ協会理事、日本パラリンピック委員会(JPC)副委員長、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会・顧問会議顧問、スポーツ庁スポーツ審議会委員など。

田口亜希
(たぐち・あき)写真右/1971年、大阪府生まれ。日本郵船所属。25歳の時、脊髄の病気により車いす生活となる。障害を負ってから車いすでできる射撃を始めた。2004年アテネパラリンピックに初出場し、08年北京、12年ロンドン大会と3大会連続出場を果たした。現在の主な役職は、日本パラリンピアンズ協会副会長、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会アスリート委員、東京2020聖火リレー公式アンバサダー、スポーツ審議会スポーツ基本計画部会委員など。



■誰に聞いても「パ、パラリンピック?」

――そもそも、お二人がパラリンピックを意識したのはいつですか。

写真:話をする田口氏

田口亜希(以下、田口)/私が病気で障害を負ったのは、1997年2月、25歳の時でした。長野パラリンピックの前年だったので、新聞などでたまに記事を目にする程度でしたね。

大日方邦子(以下、大日方)/そうすると、障害を負って、一番落ち込んでいるような時期に長野パラリンピックがあったんですね。

田口/そうなんです。脊髄の血管が破裂する病気で、この先車いす生活になるからと、リハビリの先生や母が、「テレビで長野パラリンピックをやっているよ」って、盛んに声をかけてくれるんですけど、私は最初、全然受け入れることができなかった。


――大日方さんは、最初に出場されたパラリンピックが1994年のリレハンメルでしたね。

写真:話をする大日方氏(右)と筆者(左)

大日方/はい。高校時代にチェアスキーに出合って、本格的に競技として取り組むようになったのは、大学に進学してから。その時、チェアスキーの先輩たちが目指しているのが“パラリンピック”でした。だから、存在そのものは知っていましたが、実際には、どんな大会かということを肌で知ったのは、リレハンメルの現地だったんです。何しろ、93年に次世代育成選手ということで急遽、日本代表に選出されたような状態でしたから。

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1998年3月 長野パラリンピック出場時の大日方氏

――リレハンメル大会に初出場されて、その4年後には自国開催の長野パラリンピックで金メダルを獲得されています。


大日方/初めて出場したリレハンメル大会で、もう、パラリンピックはすごく素晴らしいものだと感銘を受けて。現地で、トップアスリートだったアメリカのサラ・ウイル選手に出会い、彼女の「(パラリンピックは)私たち障害のある選手が、どれほどの可能性があるかを示すことができる大会」という言葉を聞いて、まさに今も言われている“パラリンピックの存在意義、価値”そのものだと感じたんです。
サラと真っ向勝負する選手にならなければ、と思って臨んだのが、長野パラリンピックでした。

田口/大日方さんは、自国開催のパラリンピックに出場したレジェンドですよね。日本の社会は、長野大会を機に変わったと感じました?

大日方/開催前は、誰に聞いても「パ、パラリンピック?」という認識(笑)。スキー場でも、チェアスキーは断られるのが当たり前でした。ところが開幕したら、連日、新聞やテレビで大きく報道されて。
後々、なぜここまで注目が集まったんだろうと考えてみたら、日本は金メダルラッシュだったんです。アイススレッジスピードレースの松江(現:マセソン)美季さんとか、土田和歌子さんとか、バイアスロンの小林(現:井口)深雪さんとか。私も初日にダウンヒル(滑降)で金メダルを取りましたが、スポーツ新聞の1面に記事が掲載された。そんなことは初めてでした。
もし、日本選手が表彰台に上らなければ、あれほどの報道はなかっただろうと思うんです。だから、大会が終わってから「選手は絶対にメダルを獲得しなくてはいけない」と改めて痛感したほどでした。


■パラリンピックは格別の舞台

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2012年9月 ロンドンパラリンピック出場時の田口氏

――田口さんは、射撃で2004年のアテネ大会に初出場しています。正直、射撃というと身近ではないイメージがありますが、なぜ、それを選ばれたのですか。


田口/子どもの頃から運動神経が優れているわけではなく、それほどスポーツに興味はありませんでした。ただ、病気の後、車いすでできることを何かしたい、という気持ちはあったんですね。
実は、病気になるよりもずっと前、大学卒業後、客船『飛鳥』の乗務員として就職し、ホテルで新入社員研修していた時、お客様からクルーズ船でクレー射撃ができるか、というお問い合わせをいただいた。弊社は日本企業の船舶なのでできないのですが、そのころ外国籍の船では洋上でクレー射撃ができるものがあったんです。その話を聞いて、ぜひやってみたい、と思ったことがありました。

大日方/それで、射撃に?

田口/実際には、退院して会社復帰した頃、入院仲間と食事をしていて、車いすでできる射撃があることを聞いて、面白そう、と思ったことがきっかけでした。最初は、実弾ではなくビームライフルでしたけど。大日方さんも体験したことがありますよね?

大日方/ビームライフルはやらせてもらったことがあります。

田口/それが、2000年のシドニーパラリンピックの前くらい。まだまだパラリンピックを自分ごととして捉えてはいませんでした。でも、ビームライフルで競技大会に出場すると、優勝するようになって。

大日方/そこから、本格的に?

写真:話をする大日方氏(左)と田口氏(右)


田口/それでも、当時はまだ自分の障害を受け入れられていない状態だったんです。どこか、自分の将来に恐怖心を抱いていたような。

大日方/障害者の世界に一度入ってしまったら、もう後戻りできないみたいな。

田口/そうなんでしょうね。

大日方/障害を負った背景や年齢など、みんな様々。人によって、障害を受け入れる時間のかけ方が違うんですよね。

田口/競技も、どこか流れのままにやっていました。選考大会に出場したら成績が出て、国際大会の代表選手に選ばれて、それで大会に出場しました。ただ、その過程で悔しい思いも味わったんです。
ドイツでのワールドカップの時に、現地で体調を崩して途中棄権してしまった。国際大会での成績のポイントを積み重ねることでパラリンピックの出場枠を獲得するシステムですが、せっかくドイツまで行って、それがかなわなかった。自分だけでなく、海外遠征のために費用を投じてコーチやスタッフも帯同してくれているのに、彼らのサポートも棒に振ってしまったわけです。競技者として、もっと真剣に競技に取り組まなくてはいけないと痛感しました。

――そうして、初めてのアテネパラリンピックに出場しました。


田口/はい。でも、当時、報道はすごく少なかったですね。

大日方/私は、アテネ大会の時、NHKのディレクターとして現地で取材させてもらいました。田口さんを見て、わぁ、きれいな人がいるなあって(笑)。

写真:話をする大日方氏(左)と田口氏(右)


田口/取材していただきましたね。でも、当時は、新聞で言えば、社会面での扱いでした。ただ、それが当たり前なのだろうと思っていたんです。国内の大会でも、スタッフのほかは、家族が応援にくるくらい。海外での国際大会でも同様です。だから、パラリンピックもそんなものだろうって思っていました。
ところが、実際にアテネに入って、開会式に参加したら、スタジアムは満員ですごく盛り上がっていて、スタンドから「ジャパン!」という応援の声も聞こえてきて。私、涙が止まらなかった。

――パラリンピックは、やはり特別な舞台だったのですね。


田口/自分も、テレビでオリンピックを観戦すれば感動するし、知らない国の選手でも頑張っていると、つい応援したくなっちゃうじゃないですか。まさに、そういう雰囲気です。
それから、現地の人の素晴らしさにも感動したんですよ。街を歩いていると「困ったことはありませんか」と声をかけてくれたり、競技で敗退しても「素晴らしい試合だった」とボランティアの人が声をかけてくれたり。これがスポーツの素晴らしさ、パラリンピックなんだと衝撃を受けました。
その後、東京オリンピック・パラリンピック招致活動に参加させてもらっていますが、私が感じたスポーツの素晴らしさを、東京でみんなと分かち合いたいという気持ちが、大前提にある。それは、この経験があるからなんです。

大日方/私は、夏季パラリンピックではシドニー、アテネ大会にNHKのディレクターとして現地に行きました。同じパラリンピアンとして選手の気持ちがわかるので、このタイミングでコメントをもらっていいのかなど、すごく気を使いましたね。でも、現地に行って、改めて夏も冬も同じパラリンピックだということを感じていました。


■アスリート同士の交流がレガシー

――大日方さんは、自国開催のパラリンピックの4年後、ソルトレーク大会を目指す過程で、社会的変化をどのように感じていましたか。

写真:話をする大日方氏


大日方/当時は“レガシー”というキーワードはまだありませんでした。でも、ゼロだったわけではないんです。
長野パラリンピックの競技会場だった長野県の志賀高原スキー場では、大会で審判をされていた人が経営するホテルを、パラリンピックの閉幕後バリアフリーに改修して、格安で練習場所として提供してくれました。長野オリンピック・パラリンピックの展示スペースを作って、私の色紙を展示してくれたり、練習バーンにポールセットしてくれて、地元の中学生や高校生、社会人チームの選手たちと一緒に練習する機会を作ってくれたり。とにかく理解者がすごく増えたんです。

田口/実際に、関わったり、見たりして、知ることで理解は進むんですよね。


――大日方さんは、2010年のバンクーバー大会、田口さんは2012年のロンドン大会まで選手として活躍されて、引退後の13年に東京オリンピック・パラリンピック開催が決定しました。その瞬間は、どんな思いだったのでしょう?


田口/私たち、一緒にいてその瞬間を見ていたんですよね。松岡修造さんと一緒に。

大日方/夜中に、すごいテンションでした(笑)。

写真

2013年9月 東京大会開催決定で歓喜に沸く 左から土田和歌子氏、田口氏、大日方氏


田口/大日方さんは、長野を経験しているから、きっとなんとなく自国開催のイメージがあったと思うのですが、私は、全然ありませんでした。

――東京開催が決定して、パラスポーツ、パラアスリートの競技環境や社会的な環境の変化を、どう感じられていますか。


田口/私自身は、2016年の東京大会招致活動から携わっているのですが、2016年招致活動の頃は、2020年のような盛り上がりはなかった。その頃は「東京“オリンピック”を招致しよう」と一般的に言われていたんです。16年の招致時点で、他の開催候補都市はどこも「オリンピック・パラリンピック」と併記していたのに、当初、東京はそうではなかった。活動の途中から「東京オリンピック・パラリンピック」と併記されるようになったんですね。

大日方/16年の招致活動の頃は、私は現役選手でしたから、自分の競技のことで精一杯でした。それでも、招致活動が始まったばかりの頃、招致委員会の名称が「東京オリンピック招致委員会」だったことに、なぜ「パラリンピック」が入っていないのかとすごく違和感を覚えていたんです。
その頃、現在も所属先である電通PRの社員でしたが、会社の人がたくさん招致委員として出向していた。だから、彼らに問題提起したんです、この名称はおかしいって。でも、当時、誰もが「なぜ、おかしいのか?」と、ちっとも疑問に思っていませんでした。

写真:話をする田口氏


田口/あの頃は、まだオリンピックは文科省が、パラリンピックは厚労省が管轄していたんですよね。その頃はまだ、オリンピアンとパラリンピアンの交流もほとんどありませんでした。
ただ、室伏広治さんや小谷実可子さん、荒木田裕子さんとは2016年の招致活動を一緒に行う中でお話をする機会があって、コペンハーゲンの最終プレゼンで敗れてしまった時、「アスリートとして一緒に活動できることはいくらでもある。今後はオリンピアンとパラリンピアンで協力して活動をしていきましょう」と、お話いただきました。その後、JOC(日本オリンピック委員会)の活動やイベントにパラアスリートも招待してくれるなど、実際に、一緒に活動する機会がすごく増えていきました。だから、2020年の招致活動の時には、オリンピアンとパラリンピアンが協力することが当たり前になったんです。

――16年の招致活動が、現在に至る素地を作っていたんですね。


田口/今、室伏さんとお会いすると「あれが、16年のレガシーだね」と話し合っています。

大日方/2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会に参加させてもらうようになった時、オリンピアンが口を揃えて「パラリンピックをきちんと成功させなくてはダメだ」と発言されていた。16年招致に関わっていた人たちが、そういう認識を持ってくれていたんですね。会議に参加させてもらった時に、オリンピアン、パラリンピアンは、同じアスリートなのだということをすごく実感しました。


パラリンピアンセッション(後編)「伝え続けることの意義」
に続く

スポーツライター 宮崎恵理

スポーツライター 宮崎恵理(みやざき・えり)

出版社勤務を経て、フリーのライターに。1998年の長野パラリンピックを機に障害者スポーツの取材に携わり、「Tarzan」「スポーツグラフィックナンバー」など雑誌やインターネットメディアで執筆。12年ロンドンパラリンピック、14年ソチパラリンピックではNHK開会式中継解説を担当した。著書に『心眼で射止めた金メダル』『希望をくれた人』『みんなちがって、それでいい』。日本スポーツプレス協会理事、国際スポーツプレス協会会員。

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