第50回 パラリンピアンセッション(後編)「伝え続けることの意義」大日方邦子&田口亜希

2021年1月1日
写真:談笑する大日方邦子氏(左)と田口亜希氏(右)

パラリンピアンであり、日本パラリンピアンズ協会会長、副会長を務める大日方邦子氏(写真左)と田口亜希氏(写真右)。
二人が現役を引退した後、2013年に東京オリンピック・パラリンピック開催が決定した。その後、14年に障害者スポーツが厚生労働省から文部科学省に移管され、15年にはスポーツ庁が創設。東京大会の開催決定以降、時代は動き、パラスポーツを取り巻く環境に劇的な変化が訪れた。

対談後編では、2021年に延期された東京大会と、その先の日本の将来像について、二人が熱く語り合う。視線の先にあるのは、パラスポーツを超越した、真の多様性を認め合う社会の実現だ。パラリンピアンが担うべき役割の方向性を、二人が先導する。
※この対談は、新型コロナ感染対策に配慮した上で10月上旬に行われました。


■後編目次
意思表明が、環境を激変させた
1年延期で東京大会はどう変わるか
違いを認め合う社会を目指して
パラリンピアンの後輩に伝えたい思い
発信し続けることが使命


■意思表明が、環境を激変させた

――日本のパラスポーツの発展ということでは、オリンピアンとパラリンピアンの交流が大事な一つの契機だったというお話は、非常に興味深いものでした。2020東京オリンピック・パラリンピック開催決定以降、現在に至る過程で、最も変化したと思われるのはどんなところでしょうか。

写真:話をする大日方氏

大日方/選手にとって、ということでは、所属先との関係性でしょうか。企業の関心がすごく高まったと感じています。

田口/パラアスリートの競技環境も大きく変わりましたが、『パラリンピックサポートセンター』が設立されたことで、競技団体の運営にも変化があったと思います。以前は、志の高い人が手弁当で支えてきたのですが、現在は、プラス、競技向上のための強化専門スタッフが導入されています。

大日方/かつて、国立スポーツ科学センターを視察させてもらったことがあるのですが、その当時は車いすでの利用がなかったため、過剰に心配されたことが思い出されます。その時、オリンピアンはこういう環境でトレーニングをしているということを知れば知るほど、パラリンピアンもなんとかしなくては、という焦燥感がありました。

――今では、完全バリアフリーの国立トレーニングセンターができました。


大日方/わずか数年で、これほど変わるのかという思いですね。

――2013年に2020東京オリンピック・パラリンピック開催が決定してからの急速な変化の背景には、何があるのでしょうか。


大日方/首相やオリンピック担当大臣、東京都知事など、政府の人たちが「パラリピックを成功させる」という意思表明をしたことは大きいです。このような発言が繰り返される中で、オリンピックもパラリピックもどちらもしっかりと開催されるというメッセージが広く社会に浸透しました。それが、企業などを動かす原動力になったと感じています。

写真:話をする田口氏の横顔

田口/私は、“時代”ということも大きいと思いますね。開催決定以降、“多様性”というキーワードもすごく聞かれるようになりました。それは障害者に限ったものではなく、例えば、LGBTなど様々な価値観や生き方についても目が向けられるようになった。
人は、いろんな違いがあって、それをみんなが受け入れて社会が成り立っているという認識が広まりましたよね。情報が行き渡ることで、複合的に社会が醸成してきたのではないか、と思っています。


■1年延期で東京大会はどう変わるか

写真

2020年8月24日、東京パラリンピック開幕1年前の東京駅

――新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、東京オリンピック・パラリンピックが1年延期となりました。前代未聞の事態ですが、お二人の東京大会のイメージにも変化がありましたか。


大日方/延期が決まる前までは、すごく明確に東京パラリンピックのイメージがあったんです。街中もオリンピック・パラリンピック一色になって人と人が行き交うときに、笑顔で会釈するような。でも、そのイメージは大きく変わるのだろうな、と思っています。

田口/以前は、スタンドが観客で満員になって、その中で選手たちが活躍するって、純粋に思い描いていましたものね。

――コロナによって、満員のスタンドは“密”になってしまうことになります。


大日方/観客も選手も、マスクを着用して。目が合ったら笑顔を交わし合うという、私たちが過去のパラリンピックで経験してきた開催都市のおもてなしが、難しくなってしまいそうです。

田口/ただ、東京大会を目指してきた選手たちが、最大の力を発揮できる環境、場を提供したいということに変わりはありません。それは、過去のパラリンピックで私たちが経験してきたこと、開催国が整えてくれたこと。自国の選手だけでなく、全ての国の選手にも同じように活躍してほしい。やっぱり開催できてよかった、出場して本当によかったと選手たちには感じてほしいですね。

大日方/選手もですが、応援にきた観客にとっても同じように“来てよかった”と感じられる大会にしたいですよね。

田口/うちの母が、1964年の東京オリンピックを見にきたらしいんです。それを今でも懐かしく思い出すって、私に話してくれるんですよ。それこそが「レガシー」なんだろうって、思います。実際に東京に来られなくても、テレビで応援した人も含めて、「2021を見たんだよ」って、後々思い出話をするような、そんな大会になってほしいですね。


■違いを認め合う社会を目指して

写真:話をする大日方氏

大日方/でも、もう一方で思うのは、終わった後に“何を残せるか”ということ。そこには、強い思いがあります。お祭り騒ぎだけで終わらせてしまうのは、もったいない。

――そこは、ぜひ、伺いたかったことでもあります。お二人は、東京オリンピック・パラリンピックが終わった後、どんなことが残ってほしい、残したいとイメージされていますか。


大日方/すごく漠然とした表現ですが、「どんな人もそれぞれのステージで人生を楽しむことが許容される社会の空気」です。
スポーツに限らず、趣味や仕事の選択肢などを含めて、寛容な社会になってほしい。東京オリンピック・パラリンピックが開催されたことで、日本は住みやすくなったよね、という実感が持てることが成功なのかなと思っています。

田口/コロナ禍によって、企業の業績も悪化するところがあります。アスリートが、東京大会以降、「はい、終わり」となってしまわないように、セカンドキャリアも含めてしっかり考えていかないと。
東京大会開催決定以降、スポーツの競技団体だけでなく、様々な障害者の団体の方とも交流する機会がありました。パラリンピックをきっかけに、社会が変わったよね、と感じられることが理想なのかな。

大日方/知ることで、理解が深まっていきますから。

写真:話をする田口氏


田口/知ること、とても大切ですよ。それは、健常者が障害者を理解するというベクトルだけではなくて、逆もあるんです。
私は25歳で障害を負ったわけで、健常者と障害者の両方の立ち位置で物事を見ることができた。射撃の大会に出場するようになったばかりの頃、あるチームメイトが自分の荷物をコーチに運ばせていたんですね。その姿を見て、びっくりして。それ、自分で運べるよねって。健常者のコーチやスタッフは、それを障害のある選手に指摘することができずにいたんです。
もちろん、障害によっては、自分で荷物を運べない人もいる。同じ車いすユーザーでも、状態や程度が違う。知らないと、その違いを理解できないんです。

大日方/違いを認めること。共通するのはこの部分だけど、ここは違う。違って、いい。東京パラリンピックを機に、「そういうのも、ありだよね」という気持ちが芽生えればいいんです。


■パラリンピアンの後輩に伝えたい思い

――寛容性は、お互い違うことを認め合わないと生まれませんよね。お二人は、現役を引退された後、パラスポーツの推進活動に従事されています。セカンドキャリアとしてもパイオニアの立場で疾走されていますが、後輩に伝えたいことは、どんなことでしょうか。

写真:話をする田口氏


田口/私ね、パラリンピックに出場して本当に、人は一人で生きているのではない、人に支えられて生きているって、実感したんですよ。
病気になる前、大学を出て就職して2、3年で責任ある仕事を任されるようにもなって、当時は、なんでも一人でできるって思っていたんです。ところが、そんなときに病気になって障害を負ったら、一人ではできないことがいっぱい。「人に迷惑をかけながら生きているなんて、価値がない」って、感じていました。

でも、競技を始めて大会に出場するようになってから、あるとき、ふと思ったんです。「障害があるから、助けてもらっているのではなく、私は健常者だったときにも、様々な人に助けてもらっていたんだ」って。パラリンピックに出場して、みんなが素晴らしいと言ってくれる。でも、それは自分だけで成し遂げたことではなくて、人に支えられているからこそできた。そのことを、後輩に伝えたいと思いますね。

大日方/ちょっと厳しい言い方をすると、パラリンピアンが偉いわけでも、パラアスリートだからなんでも許されるわけでもないということ。自戒も込めて、そう思っています。私たちアスリートが、スポーツを通じて社会に貢献できることは何か。それをずっと考え続けてほしいって。

田口/私は現役時代にパラリンピックでメダルを獲得することはできなかったけれども、引退後、東京大会招致活動から携わることで、パラアスリートとして発言する機会が与えられました。それを、しっかり生かさなくては、と思うんです。

大日方/アスリートは、よく「成績で恩返しする」という発言をします。かつて、私自身もそう思っていた時期がありました。でも、メダルを獲得することだけが恩返しではないと、つくづく思うんです。
金メダルを獲得して、それで、その先にどうするの? って。そこが、とても重要です。それこそが、アスリートの責任なのかなと思います。私自身、常にその答えを模索中ですけれども。


■発信し続けることが使命

――「パラリンピック」が広く認知される以前から活躍されていたお二人が思い描く将来像は、どんなものでしょう。


大日方/私は、アスリートのセカンドキャリアにとても関心があります。現役を離れてからの人生の方が、よっぽど長いんですよ。その後の過ごし方にこそ、スポーツの真価を問われると思っています。自分自身を含めて、どう取り組むか、またどんなことを発信していくか。それは今後の課題ですね。

田口/私は、ちょっとパラスポーツから離れますけれども、社会的なバリアフリー施設がもっと“普通”になってほしいって、思っています。建物を建設する際には、例えば非常階段を設置することは誰もがすぐに思い描ける。それと同様に段差のあるところにスロープやエレベーターを設置するというようなことです。

大日方/東京はバリアフリーのインフラが整ってきていますが、それでも、「?」と感じることって、まだありますよね。

田口/東京・虎ノ門に新しくできたビルの中に、中2階への階段があって、リフトが設置されているけれども、そこを上がるためには毎回人を呼んでリフトを動かしてもらわないといけないんです。

写真:笑顔を浮かべながら話す大日方氏


大日方/このビルのリフトについては、私たちがすごく違和感を覚えていても、その違和感が人に伝わってないと感じることがありますね。リフトがあるんだから、いいじゃないかって。先日、JR山手線を利用したときに、駅員の方がサポートしてくださったんですけど、駅構内のアナウンスで「何号車、何番の
お客様、ご案内完了です。行き先は品川・港南口」と、ご丁寧に行先までアナウンスされて、ちょっと恥ずかしかった。

田口/路線や駅によっても、対応が違うこともありますけれど、一般の乗客は自分の行き先をアナウンスされたりしませんよね。

大日方/以前、IPC(国際パラリンピック委員会)の方から「どういう社会になったらバリアフリーだと思うか」という質問を受けたことがあるんです。障害のある人自身が自分を障害者だとか、車いすということを意識しなくても日常生活を送れるようになったら、それがバリアフリーな社会なのかなって思います。

田口/私はかつて、アメリカのロサンゼルスに住んでいたのですが、アメリカはバリアフリーのインフラはすごく整っています。どんな小さなカフェでも、たとえ一つしかなくても、トイレは車いすで利用できる構造になっているんですよね。日本では、車いす対応のトイレをあらかじめ確認しておかないと慌ててしまうことがよくあります。

大日方/ベビーカーを押している人は、車いすの目線に気づくことが多いですね。

田口/私たちも、不便なことに「仕方がないか」と思ってしまっているところがある。先日、都内でミシュランの星を獲得したレストランで知り合いの結婚式があったんです。でも、そこには車いすで入れるトイレが設置されていない。私は、あらかじめ近くに車いす用のトイレがあることがわかっていたので、そこを利用したのですが、それを知った知り合いが、涙ながらに「悔しい!」って言ったんです。障害者が利用できるトイレのないレストランが星を獲得しているのはおかしいって。

写真:話をする大日方氏


大日方/私たちパラリンピアンは、メディアなどで発言できる機会があるにもかかわらず、発言しにくいと感じている。それでも、やっぱり発信し続けなくてはいけないという使命を感じますね。

田口/海外での国際大会など、様々なバリアフリー事情を知ることができわけだし、発信できる立場にもいるのですものね。

大日方/パラリンピアンが、それぞれの立場で発信し続けることは、とても大切だと感じます。日本パラリンピアンズ協会の意義も、そこにある。様々な障害があって、それぞれの言葉で語ることができますよね。

田口/ときには、戦うこともあるけれども(笑)。

大日方/田口さんは、時々、大阪のおばちゃんが入っていることがあります(笑)。

写真:談笑する田口氏(右)、大日方氏(中央)、筆者(左)


田口/アンガーマネジメントは大切! あえてアグレッシブに伝える時もあれば、低い声で冷静に伝えることも効果的です。

――伝え続けていくことも、パラリンピアンの大事な役割ですね。

田口/1度では伝わらないことも、1万回言い続ければ、その中で誰かに伝わっていく可能性があります。私たち自身もまだまだ気づかないことや、知らないことがある。でも、知っていくことで互いの違いを認め合っていける。そのきっかけになるのが、東京パラリンピックなのだと思っています。

大日方/パラリンピック、パラスポーツの世界は、オリンピックに比べるとまだまだ小さい。でも、だからこそ、自分たちで作り上げていこう、変化させていこうという気持ちになれるんです。障害も、視点も違うからこそ、その多様性が強みになる。これからも面白がって、課題に取り組んでいきたいですね。

――ありがとうございました。


写真


大日方邦子
(おびなた・くにこ)写真左/1972年、東京都生まれ。電通パブリックリレーションズ所属。3歳のとき交通事故により両下肢に障害を負う。高校2年でチェアスキーをはじめ、1994年リレハンメルパラリンピックのアルペンスキーに初出場。1998年長野大会では滑降、2006年のトリノ大会では大回転で金メダルを獲得し、2010年バンクーバー大会まで連続5大会に出場し、計10個のメダルを獲得。バンクーバー大会後、現役を引退。現在の主な役職は、日本パラリンピアンズ協会会長、日本障がい者スポーツ協会理事、日本パラリンピック委員会(JPC)運営委員、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会・顧問会議顧問、スポーツ庁スポーツ審議会委員など。

田口亜希
(たぐち・あき)写真右/1971年、大阪府生まれ。日本郵船所属。25歳の時、脊髄の病気により車いす生活となる。障害を負ってから車いすでできる射撃を始めた。2004年アテネパラリンピックに初出場し、08年北京、12年ロンドン大会と3大会連続出場を果たした後、現役を引退。現在の主な役職は、日本パラリンピアンズ協会副会長、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会アスリート委員、東京2020聖火リレー公式アンバサダー、スポーツ審議会スポーツ基本計画部会委員など。




【関連記事】パラリンピアンセッション(前編)「東京大会招致から始まったレガシー」


スポーツライター 宮崎恵理

スポーツライター 宮崎恵理(みやざき・えり)

出版社勤務を経て、フリーのライターに。1998年の長野パラリンピックを機に障害者スポーツの取材に携わり、「Tarzan」「スポーツグラフィックナンバー」など雑誌やインターネットメディアで執筆。12年ロンドンパラリンピック、14年ソチパラリンピックではNHK開会式中継解説を担当した。著書に『心眼で射止めた金メダル』『希望をくれた人』『みんなちがって、それでいい』。日本スポーツプレス協会理事、国際スポーツプレス協会会員。

おすすめの記事