第51回 山本恵理(パワーリフティング)「支え、支えられて未来へ」

パワーリフティング 2021年2月17日
写真:舞台上、編み込みヘアで笑顔の山本恵理選手

2020年2月1日 第20回全日本パラ・パワーリフティング選手権大会 女子 55kg級 表彰式にて


きっちり編み込まれたヘアスタイルが、独特の個性を醸し出している。シャフトを持つ手には、ヘアカラーやユニフォームとコーディネイトさせたネイル。シャフトに付けられたマークの内側に小指がくる位置で握る、ナローグリップが基本フォームだ。フーッ、フーッ、フーッとリズミカルに呼吸を繰り返すと、一気に頬が紅潮していく。

わずか3秒ほどの試技に集中する、パワーリフティング。3回の試技で記録を狙う。山本恵理は、55kg級で東京パラリンピック出場を目指す選手だ。



■挑戦と可能性の無観客試合

写真:横になりバーベルを持ち上げる山本選手

2021年1月30日、パラパワーリフティングの全日本選手権大会が東京・千代田区立スポーツセンターで開催された。今大会、動画配信とともに<リモートチアラー>と名付けられた新しいリモートシステムを使って、音声だけの声援を選手に届けることができるシステムが導入された。観客は、あたかも会場にいるかのように大声援で選手を応援できる。

コロナ禍、2020年10月にも京都チャレンジカップが開催された。が、山本は、京都チャレンジカップは亜急性甲状腺炎のため欠場。練習が再開できたのは、11月になってからだという。わずかな準備期間で今大会に臨んだ山本は、減量が間に合わず本来の55kg級ではなく61kg級で出場した。

これまでの山本の自己ベストは2019年に出した63kg。今大会、1回目の試技で60kgを難なく成功させると、2回目は東京パラリンピック出場の標準記録である65kgに設定。バーベルは挙がったが、3人の審判の判定はいずれも赤(失敗)だった。最後のチャレンジとなる3回目、再び65kgに挑戦した。途中「ウンッ!」と力を入れてバーベルを挙げたものの、審判の判定は赤。目指していた65kgの成功には至らなかった。

コロナの自粛期間から、亜急性甲状腺炎を経て、久しぶりとなる大会。
「今大会に臨む気持ちは“挑戦”でした。病気にかかってから一時期50kgでさえ挙げられない状態が続いていました。もう、東京パラリンピック出場は無理なのではないか、という思いも頭をよぎった。薬での影響で思うように減量できない中、それでもとにかく今大会に挑戦したんです。失敗判定でしたが、目標の65kgを挙げ切ったことには、自分の可能性を感じられました」


■パラサポ職員からアスリートへ

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2019年11月 日本財団パラアリーナを訪問したヘンリー英王子(右)に説明をする山本(左)


山本恵理には、もう一つの顔がある。日本財団パラリンピックサポートセンター(以下、パラサポ)推進戦略部のプロジェクトリーダーとして、パラスポーツの普及・推進活動の軸である<あすチャレ>プログラムを担当する。プログラムを作成し、パラアスリートらの講師が学校や企業で出前授業やセミナーなどを展開。自身が講演することもある。パラスポーツ推進活動の中心に、山本はいる。

山本がパラサポに就職したのは、2015年。東京オリンピック・パラリンピック開催が決まり、東京パラリンピックでなんらかの役に立ちたいという思いを、パラサポ就職という形で実現させた。

山本がパラパワーリフティングを始めたのは、2016年。パラサポ職員として就職した後のことである。


■パラリンピック って、美味しいの?

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2020年10月 勤務先のパラサポにて著者撮影

山本は、1983年兵庫県で生まれた。先天性の二分脊椎により、幼少期は装具を着用して歩行していたが、成長に伴い行動範囲が広くなると車いす生活になった。
9歳のとき、母の勧めで水泳を始める。

「お風呂さえ嫌いというくらい、水が大嫌いでした。初めてプールに入るという日に、溺れてしまえば親も水泳を諦めるのではないか、と思って出かけたのですが、意に反してプールに入ったら、自然と体が浮いて泳げたんですよ!」

そこから水泳教室に通うようになると、現在、日本身体障がい者水泳連盟の常務理事を務める櫻井誠一氏に見出され、「パラリンピックに行かへんか」と声をかけられる。

「なんですか、それ。“パラリンピック”って美味しいの?」
あどけない笑顔で山本は、こう切り返した。初めて「パラリンピック」を知った瞬間だった。

中学、高校に進学してからも水泳を継続させていたが、高校2年の真夏、友人とプールサイドに腰かけていた時に、太陽熱で熱せられたコンクリートの床に座り続けていたため、重度の低温火傷を負ってしまい入院する羽目に。治療が長引き、そのまま大学受験に突入して水泳はそれっきりとなってしまった。

同志社大学に進学し心理学を学んだ後、大阪体育大学大学院、カナダのアルバータ大学大学院に留学し、障害者スポーツを軸にしたスポーツ心理学の研究に勤しんだ。その経験と実績によって、山本は、2008年北京パラリンピックの時には日本チームのメンタルトレーナーとして現地に帯同。12年ロンドン大会では、水泳の日本代表チームの通訳に。合間には、世界各地で開催される国際大会や招待選手を招聘した大会での通訳なども務めるなど、日本のパラスポーツのために汗を流してきた。

そして、翌13年には、東京オリンピック・パラリンピック開催が決定する。
「2015年に東京に行く機会があり、パラサポを訪れた時に就職の話がトントンと決まって。修士論文、8割書きかけのまま急遽帰国することになりました」


■気軽にスポーツを楽しんだ、カナダでの経験


高校2年の時のケガによって水泳を諦めた山本は、カナダに渡るまでスポーツとは無縁の生活を送っていた。

2010年、日本チームがバンクーバーパラリンピックで銀メダルを獲得した年。カナダに到着し、大学院に入学したその日に出会ったカナダ人の女性から「パラアイスホッケーをやらない?」と声をかけられたという。

誘われるままにアイスリンクに行くと、地元のアイスホッケークラブには老若男女、子どもたち、そして障害者もアイスホッケーを楽しんでいた。
「カナダでは、アイスホッケー選手って、みんなのアイドル、スターなんですよ。それは、障害者も同じ。子どもたちが“サイン、ちょうだい”って集まってくる。アスリートはこうやって日常的に育っていくんだなって、すごく実感したんです」

一方、車いすユーザーである山本は、カナダではアイスホッケーだけでなく様々なスポーツに触れた。

「気軽に、スポーツに親しめる環境やプログラムがありました。“今日、何する?”みたいな感じで、その日、その時の人数で楽しめるスポーツをセレクトするところから始まる。すごく身近でしたね」

この経験が、現在プロジェクトの企画立案や運営に多大な影響を与えているのだという。

「パラサポへの就職が決まって日本に帰国してから、例えば、スポーツジムでも車いすでは利用できないなど、手軽にスポーツを楽しめないことを痛感したんです。障害者がもっと気軽にスポーツを楽しめるようにするための啓発プログラムを全力で進めてきました」


■アスリート山本恵理の誕生


そんな山本が、自らパラパワーリフティングで東京パラリンピックを目指す。

「きっかけは、東京都が主宰する体験イベントの『NO LIMTS CHALLENGE』。視察で出かけた先で、パワーリフティングを体験しないかと声をかけられて。見様見真似でバーを挙げてみたら、スッと挙がった」

バーだけでも重量は20kgになる。軽く挙げられたことで関係者が驚き、30kgの重量にしてトライすると、これも簡単に挙げられた。
「それで、次に40kg。これもその場で挙がったんですよ!」
パラパワーリフティングの選手たちも拍手喝采。パラリンピック出場経験のある選手から、「今度、この大会に出場して、次にこの国際大会に出場して記録を出せば、東京パラリンピック出場も夢じゃない!」と、事細かに青写真を教えてくれた。

「東京にチャレンジするチャンスが、私にもあるの?」
記憶が、9歳に遡る。初日に溺れずプールに通っていた日々、櫻井氏から言われた言葉「パラリンピックに、行かへんか?」が蘇った。

「東京を目指すなんて、ワクワクするじゃないですか」

パラサポの上司に掛け合うと、「練習はしっかりやっていい。でも、プロジェクトもこれまで通り、推進させること」という条件で快諾を得た。こうして、2016年、アスリート山本恵理が誕生したのである。

写真:仕事でパソコンを見ている山本選手

アスリートとしてのトレーニングは週3回。月・水・金曜日の9時~12時、ベンチプレスの練習に集中する。それ以外の日は、パラサポ職員としての業務をこなす。
「パワーリフティングは、回復の時間もとても重要です。だから、このペースが理想的なんです」


■髪の編み込みがスイッチに

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2019年9月 東京パラリンピックテストイベントとして開催されたREADY STEADY TOKYOにて

2016年、大会に初めて出場した頃の山本は、まだまだ「パラサポ職員が競技に挑戦した」というイメージが強かった。

そのイメージがガラリと変わったのが、2年後の2018年である。大会前に髪を編み込んだ。

「9月、北九州市でアジア選手権に出場したんです。自国での初めての国際大会ということで、とても気合が入っていました。ところが、3回の試技全てで失敗してしまったんです」

2018年10月には、インドネシアでアジアパラ競技大会が開催されたが、山本は日本代表の選からこぼれ落ちていた。
「どこか、中途半端なままでした」

パラサポ職員の山本から、アスリート山本への変身。髪の編み込みは、そのスイッチになった。大会2日前に、髪を編み込んでもらうと、そこからはアスリートの顔に変わる。

そうして、2019年、東京パラリンピックと同じ会場となる東京国際フォーラムで開催されたREADY STEADY TOKYOパワーリフティングで自己ベストとなる63kgを挙げた。

「パワーリフティングは、表現力、精度のスポーツです。練習では、この重さを挙げる筋力はついていました。でも、試技として、どれだけ高い精度で挙げることができるか。やっと邪念を払って、結果として実現できました」

2020年は新型コロナウイルスによる自粛期間があった。本来、4月にはドバイで東京パラリンピック出場をかけた65kgの標準記録突破を目指す大会に出場するはずだったが、大会は中止に。

「実際には、“65kg”の壁がすごくプレッシャーになっていました。東京パラリンピックが1年延期になったことで、ほっとした部分もありました」

自粛期間中は、トレーニングジムの利用ができない。ベンチプレスの機器を持ち込み、自宅でトレーニングできるようにした。

「本来、一人でできる競技ではありません。バーベルを支えてくれる人や、フォームを見てくれるコーチがいて、初めて練習ができる。すごく怖いですよ、落ちてきて潰されたらどうしようって。自宅のトレーニングで改めてパワーリフティングというスポーツを見直すきっかけになりました」

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2020年2月1日 全日本選手権での試技中、ジョン・エイモス コーチ(左)に指導を受ける

自宅での練習では、ビデオをあらゆる角度に設定して動画を録画。それをイギリスに住むジョン・エイモスコーチに送信して、指導を仰いだ。日本とイギリス、物理的距離はあるが、コミュニケーションの距離は決して遠くはなかった。

「自分で工夫し、自分の頭でパワーリフティングを組み立てられるようになったこと。それが、コロナ禍の大きな収穫になりました」


■“障害”とは、選択肢がない状態のこと

写真:笑顔の山本選手


パワーリフティングは経験のスポーツと言われる。一気に重量を挙げる力は身に付かず、筋力を鍛えることで徐々に、重さのレベルを向上させていく。

「パラリンピックでメダルを獲得しようと思うなら、10年以上の経験を積まなくては実現しません。パワーリフティングは55歳前後が競技年齢のピークと言われています。まだまだ私はひよっこ。伸び代だらけです」

だから、東京パラリンピックははじめの一歩。その先、パリ大会で、ロサンゼルス大会の先でも、進化した山本恵理を披露するつもりだ。

支える側であり、支えられる側でもある。その両側に立つ山本が見据える、東京大会の先にあるビジョンとは。

「“障害”とは、選択肢がない状態のこと。車いすを使っていることで、他の人が持っている選択肢が私にはない、と感じたら、それが障害だと考えます。水泳やパワーリフティング。私の人生も、様々な選択肢を求めてきました。東京パラリンピック以降、あらゆる子どもたちにとって、障害があるがゆえに選択肢が狭まれるような社会であって欲しくない。私は、たくさんの選択肢を示し続けてあげられる大人でありたいと、心から思っています」

スポーツライター 宮崎恵理

スポーツライター 宮崎恵理(みやざき・えり)

出版社勤務を経て、フリーのライターに。1998年の長野パラリンピックを機に障害者スポーツの取材に携わり、「Tarzan」「スポーツグラフィックナンバー」など雑誌やインターネットメディアで執筆。12年ロンドンパラリンピック、14年ソチパラリンピックではNHK開会式中継解説を担当した。著書に『心眼で射止めた金メダル』『希望をくれた人』『みんなちがって、それでいい』。日本スポーツプレス協会理事、国際スポーツプレス協会会員。

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