第53回 村岡桃佳(陸上競技/アルペンスキー)「怒涛の二刀流」

陸上 2021年4月14日
写真:ピースで笑顔の陸上・村岡選手(左)と、金メダルを持ち笑顔のスキー・村岡選手(右)

2018年3月、ピョンチャンパラリンピックが閉幕し、帰国したばかりの村岡桃佳に聞いたことがある。
「オフトレ(オフトレーニング)に陸上に取り組んでいるということですが、2020年東京パラリンピックを目指すという気持ちはありますか?」

すると、村岡は、ちょっとだけ首をかしげてから、こう答えた。
「まだ、何も準備はできていません。国内大会に出場するためのクラス分けを受けてから10年以上経ちますし、国際大会のためのクラス分けはまだ受けていないので」

東京・目黒川の桜は満開で、花びらが日差しを浴びて輝くように村岡を包んでいた。
「…甘い世界じゃないっていうことはわかっています。でも…」
そうつぶやいて、村岡は光の方を向いた。

写真:5つのメダルを首にかけている村岡選手

アルペンスキー女子座位の選手として、2014年ソチパラリンピックに初出場した村岡は、4年後の18年ピョンチャン大会で大回転の金メダルを含む、全種目での5個のメダルを獲得した。冬季大会では日本人選手として1大会最多のメダル数を誇る。

中学2年で始めたアルペンスキーでメキメキと頭角を表し、高校に進学すると海外の大会に出場するようになった。17歳で初のパラリンピック出場、21歳で手にした快挙である。誰もが、冬季メダリストとしてこの先も突っ走ると思っていた。

その村岡が、ピョンチャン大会の1年後、T54クラスで陸上競技の日本選手権に出場。同年7月に行われた関東選手権では、100mで日本記録を樹立する。2020年1月、オーストラリア・キャンベラの大会で16秒34の自己ベストをマーク。その記録のまま、2021年4月現在、東京パラリンピック24か月ランキングでは村岡は6位につけている。

陸上競技でパラリンピックに出場する。
村岡にとって、それは冬季パラリンピックに出場するよりもずっと前から抱いていた、子どもの頃からの大きな夢だった。


■キャンプでレーサーに開眼

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2020年9月 パラ陸上 日本選手権 女子 100m T54 決勝より

1997年3月3日、埼玉県生まれ。桃の節句に生まれたから、「桃佳」と名付けられた。4歳の時に横断性脊髄炎にかかり、車いす生活となる。へそ下から両足、左は脇の下近くまでまひがある状態は、今も変わらない。

小学2年生の時に、バルセロナから3大会連続でパラリンピックの陸上競技に出場した千葉祗暉(ちば・まさあき)氏が主宰するパラスポーツキャンプに参加した。障害児を対象にしたそのキャンプでは、日替わりで陸上競技用レーサーに乗って走り、ホイールがハの字になった車いすでテニスやバスケットボールを楽しむ。

村岡は、断然、レーサーのスピード感に魅了された。キャンプが終了すると、毎週末、父と2人で障害者スポーツセンターに出向いてレーサーに乗り込むようになった。
「自分と同じように車いすに乗った友達ができて、その子たちとレーサーで鬼ごっこをする感覚で、夢中になって走っていました」

週1回の練習に加え、子どもが参加できる陸上競技の大会にも出場するようになる。2011年に山口県で開催された全国障害者スポーツ大会では、100m、200mで2冠に輝いた。

熱心に指導する千葉の姿に、まだあどけなさが残る村岡は触発された。
「いつか、私もパラリンピックに出る!」

そんな村岡に向かって、千葉は何度も言い聞かせた。
「練習は本番のように。本番は練習のように」

疾走するスピード感とともに、今でも忘れられない言葉なのだ、と村岡は振り返る。


■ピョンチャン大会直後に感じた「ここがスタート」

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2018年3月 ピョンチャンパラリンピック 女子回転(座位)より

チェアスキーを使って初めてスキーをしたのは、小学3年。毎年1度は、ゲレンデに出かけた。中学2年の時に、パラアルペンスキーで活躍する選手たちの姿を目の当たりにし、本格的にアルペンスキーに取り組むようになる。レーサーとは異なる滑走感に、村岡はまたたく間に熱中した。

海外遠征を認めてくれる正智深谷高に進学し、国際大会へのデビューを果たす。そうして初のパラリンピックとなるソチ大会に出場し、陸上競技よりも先にアルペンスキーで「パラリンピックに出場する」という夢を実現させた。

2度目のピョンチャン大会で、5種目全てでメダルを獲得するという快挙を成し遂げた村岡は、「ここからが本当のスタートじゃないかと思った」と語った。

「メダルは、ずっと遠いところにあるゴールだと思っていました。もちろん、ピョンチャンパラリンピックで達成感はあります。でも、終わってみたら、もっともっと競技を追求したいという気持ちが大きくなっていったんですよ。なんだ、ここがスタートじゃない?って思ったんです」

アルペンスキーにまい進してきた村岡は、競技としての陸上からは遠ざかっていた。13年に東京オリンピック・パラリンピック開催が決定し、ピョンチャン大会が閉幕すると、日本には「さあ、いよいよ東京パラリンピックだ!」というムードに満ち溢れていく。そして、その空気は、確実に村岡を包み込んでいたのだった。

早稲田大学を卒業しトヨタ自動車へ。その2019年6月、パラ陸上競技の日本選手権に初出場すると、100mで2位に。7月に行われた関東選手権大会では17秒38という記録で日本記録を樹立し、続くジャパンパラ競技大会でも優勝を飾った。もう一つの「パラリンピック出場」の夢に向かって、村岡は新たに疾走を始めたのだった。


■コロナで文字通りの二刀流に

写真:陸上、スタート前に力を込めている村岡選手

新型コロナウイルスは、アルペンスキーにも大きな影響を与えた。2022年北京大会に向けて大切なシーズンとなる2020年秋、例年であれば、日本チームはヨーロッパ合宿を実施するが、中止が決定した。

村岡は、コロナ禍の20年秋、単独でヨーロッパ遠征を敢行させた。
「陸上競技を始めてから1年半。全くスキーをしませんでした。小学3年でスキーを経験して以来、これだけ長期間雪上に出なかったのは初めて。久しぶりに雪の上に立った時、不安になるくらいでした」

本来なら、2020年の夏には東京パラリンピック出場を実現させて、意気揚々とアルペンスキーに戻ってくるはずだった。
「2020年までに陸上をやり切って、アルペンに切り替える予定でした。陸上競技とアルペンスキーの二刀流と言われますが、コロナによって図らずもそういう形になったんです」

東京パラリンピックの1年延期が決まっても、村岡の選択肢から、陸上競技が消えることはなかった。


ヨーロッパで1年半ぶりとなる雪の感覚を確かめながら、広大なスキー場を自在に滑り込んだ。そうして年末、日本チームの練習拠点である長野県菅平高原スキー場での合宿に参加すると、
「あ、まだまだいける。こんなことも試してみよう、こんなことにも挑戦してみようって、すごく前向きになった。限界を感じないくらいに」。

ヨーロッパ遠征や日本チーム合宿と並行させるように、陸上を始めて以来指導を受けている岡山のWorld ACでの練習や、沖縄での練習にも出かける。チェアスキーと、レーサーと。常にどちらかに乗って、村岡は、冬季をひた走っていた。

そうして2021年3月。菅平でアルペンスキーのアジアカップが開催され、その会場に村岡の姿があった。


■スキーレースの1週間後に陸上の日本選手権に出場

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2019年3月 ジャパンパラ アルペンスキー 女子回転(座位)より

アジアカップに出場すると、スーパー大回転、大回転、回転の3種目5レースで村岡は優勝。

自身にとっては2年ぶりとなる復帰戦であり、1年後に迎える北京パラリンピックに向けた大事な前哨戦でもある。海外のライバルがいないレースではあったが、安定した強さを発揮した。石井沙織ヘッドコーチは、村岡の滑りに改めて目を見はった。
「年末の合宿で2年ぶりの滑りを見るまでは、正直不安がありました。今回のレースでも分かる通り、2年前と遜色ない滑りをしています。今季、私は他の選手とともに年明けにヨーロッパ遠征に出かけて海外のトップ選手の滑りを確認していますが、村岡の滑りなら、トップ選手の誰にも負けないという力を改めて感じています」

女子座位のメダリストであり、現在アルペンスキー強化本部長を務める大日方邦子氏も、陸上競技から戻ってきた村岡の成長に舌を巻いた。
「陸上競技でしっかりと体を作ってきた。基礎体力が格段に上がっています。今回、菅平にレーサーを持ち込んでハードなレースが終わってからもローラーを使ってトレーニングしていました。陸上競技の練習を兼ねていますが、スキーで疲労した筋肉の乳酸を散らす効果もある。疲労を残さない努力も自然と行っているんですね。そういうことを毎日続けるのは、簡単なことではありません。できる選手、できない選手にはっきり分かれます」

村岡は、簡単ではないことを実践する限られたエリート選手であると、大日方氏は強調した。

日本のアルペンスキー、特に座位では男子選手は、2006年トリノ大会で銀メダルを獲得した森井大輝を筆頭に、狩野亮、鈴木猛史もバンクーバー、ソチ、ピョンチャンで数多くのメダルを獲得している。そんな世界の頂点に君臨する男子選手と一緒に練習してきたからこそ、村岡は男子並みと言えるスピードやテクニックを身につけてピョンチャン大会での快挙を成し遂げたのだ。


一方、陸上競技でも、北京パラリンピックから3大会連続出場する松永仁志が監督を務める岡山World ACを練習拠点として、アルペンと同様、男子の強豪選手とともに陸上競技にみっちり取り組んでいる。

「最初に岡山の練習に参加した時には、“全然体ができていない”と指摘されて。そこから体作りを含めて、必死に食らいついてきました」
と、村岡も陸上に取り組んできたこの2年を振り返る。


菅平でのアジアカップが終わってわずか1週間後、東京で開催された陸上競技の日本選手権の100mと400mに出場し、村岡はいずれも優勝した。

「100mでは新調したグローブに慣れず、ミスをしたことが反省点。100mではわずかなミスも許されないので」

400mでは、58秒00で自己ベストを更新した。
「アルペンスキーのアジアカップが終わって2日後には岡山に移動しました。東京パラリンピックの選考レースでもある日本選手権で、焦りや緊張が出てしまったかな、と思いますが、菅平滞在中にレーサーで陸上競技の動きを継続的に確認できたことは、よかったと思っています」


■夏と冬。パラリンピック出場を目指して

写真:笑顔の村岡選手

4月には、再び長野県でアジアカップ2戦目に出場し、その1週間後に陸上競技のジャパンパラ競技大会に出場する。長距離移動も、ハードなトレーニングも、全ては、自分の夢の実現のため。まさに、怒涛の二刀流だ。

「陸上に取り組んできたことで、フィジカルも強化されましたが、それとともに気持ちが大きく変わりました」

陸上競技で培ったフィジカルが、スキーでの“もっと前へ”“もっと速く”という挑む気持ちを後押ししてくれる。自分の限界を突き破る力を、陸上競技で手にした。だからこそ、東京パラリンピックが1年延期となり二刀流を強いられても、陸上を諦めるという選択肢は、村岡にはないのだ。

「陸上では、練習でもレースでも、タイムという形で自分の成長が目に見える。東京パラリンピック出場という目標もありますが、それ以上にもっともっと陸上競技を突き詰めてみたいという気持ちが大きくなっていきました」

スキーであれ陸上競技であれ、取り組むほどに募る探究心が、村岡を突き動かしていく。
目の前にある、東京パラリンピックという大きな夢の舞台。
「まだ出場が決まったわけではありません。まずは出場を果たすこと。そして決勝に進出すること」

子どもの頃から見つめ続けてきた「パラリンピックに出場する」という村岡の夢。東京大会出場を実現させて初めて、冬と夏の両方で叶えることができる。その時、村岡の目に映る未来は、どんな姿をしているのか。5個のメダルを獲得したピョンチャンパラリンピックで「ここが、スタート」と実感した村岡にとっての、もう一つの「始まり」が幕を開ける。

スポーツライター 宮崎恵理

スポーツライター 宮崎恵理(みやざき・えり)

出版社勤務を経て、フリーのライターに。1998年の長野パラリンピックを機に障害者スポーツの取材に携わり、「Tarzan」「スポーツグラフィックナンバー」など雑誌やインターネットメディアで執筆。12年ロンドンパラリンピック、14年ソチパラリンピックではNHK開会式中継解説を担当した。著書に『心眼で射止めた金メダル』『希望をくれた人』『みんなちがって、それでいい』。日本スポーツプレス協会理事、国際スポーツプレス協会会員。

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