第5回前川楓「アスリートの覚醒」

陸上 2017年6月28日
第5回前川楓「アスリートの覚醒」

写真:前川楓選手

陸上競技でリオデジャネイロパラリンピックに出場した前川楓は、100mの予選で17秒05の自己ベストをマークし決勝に進出、7位に。走り幅跳びでは3m68で4位入賞した。
今年5月に行われた大分パラ陸上の走り幅跳びで3m97を跳び、アジア記録を打ち立てた。リオで3位だったキューバの選手の跳躍は3m92。リオであれば銅メダルを獲得したはずの記録を叩き出したのだ。

義足で走りたい!

「誰もが『足を切断して辛いですよね』って言うんですけど、ちっともそんなこと感じたことないんです」
アハハハ! と前川が笑って言う。
「事故当時はすっごく痛かったという記憶はあるけれど、今は階段の昇り降りだってちょっとしんどくてもできるし、そもそも義足ってカッコいいじゃないですか!」

中学3年の夏。朝、愛犬くうの散歩途中で交通事故に遭った。右膝のすぐ上で切断し義足になった。
「高校1年の夏休みに義足のリハビリをして歩けるようになったけど、すぐに走ることはできませんでした。でも、走りたいって思ってたんです」

義足で走りたい、ですか。
「小学5年から事故に遭うまでずっとバスケットボールをしてたから、とにかくバスケがしたい、体育館を走りたいって」
リハビリの担当医にそう打ち明けると、義足で走るランニングサークルがあるといわれた。
「それで、見学に行ったら衝撃的で。うわー、義足でこんなに速く走れるんか〜って。そこから走る練習に参加するようになりました」。

前川楓は、1998年三重県で生まれた。両親と弟の4人家族。おっと、そこに愛犬くうもいる。外で遊ぶのは大好きだったが、「小さい頃は、運動神経は最悪。足も遅いし球技も苦手。どんくさい子やった、アハハ」
ところが小学5年でバスケを始めると「ジンセイが変わった」と言う。
生来が負けず嫌い。バスケを始めて鈍かった足も速くなり、誰よりも熱心に練習に通うようになる。中学に進学してバスケ部に所属すると、ますます熱を帯びた。毎年県大会で活躍するようなチームで、仲間と毎日汗を流した。
「同級生が6人。ベンチスタートやったけど、それでも必死に練習して3年の時には副キャプテンでした」
バスケにのめり込む日々の中で、事故に遭ったのだった。

リオデジャネイロパラリンピックは節目

写真:競技中の前川選手

前川選手(真ん中)、手前のゼッケン4216番が大西瞳選手

「義足で歩くのは2週間くらいでできるようになったんです。でも、最初はスポーツ用義足の板バネが怖くて、ちゃんと走れるようになるまでに時間がかかりました」
まだ義足での歩行訓練も始まらない頃、パラ陸上競技で活躍している同じ大腿義足の大西瞳が前川を訪ねた。
「一緒に走ろう。陸上の大会に出ようよ!」
両手に競技用のウエアを携えて、前川に手渡した。
「わざわざ、東京から三重まで来てくれたんですよ」
大西の熱意にほだされて、高校2年で初めてパラ陸上の大会に出場した。
「その時100mの記録は22秒82。でもね、純粋に楽しかった。ヨーイ、ドンでスタートしたら気づいた時にはゴールして。走っている間の記憶がないくらい。とにかく夢中で走るのが楽しくて、一気に陸上にはまりました」
きっかけを作ってくれた大西とは、今も同じT42クラスの競技仲間でありライバルである。
「瞳さんがいなければ、陸上競技に出会ってないし、パラリンピックにも出場していない。一番の、憧れの存在なんです」

もともと陸上競技の素養はない。しかし、大西に引っ張られるようにして練習を始めるとメキメキと上達し、リオ大会の直前に標準記録を突破して出場権を獲得。初めてのパラリンピックの舞台に立った。
「もっと緊張するかと思ったけど、思ったほどではなくてこんなにすごいところで試合ができるのかって、めちゃめちゃ楽しかったことを覚えています」
走り幅跳びの1本目はファウル。2本目は期待通りのジャンプができず、失敗は許されないと気合を入れて臨んだ3本目に3m51を跳び、決勝に進出。4本目、自己ベストの3m67をマークした。
「初めてのパラリンピックで、走り幅跳びも100mもやりきった感はありました」

しかし、帰国してから、改めて競技者として覚醒したと言う。
「それまでは陸上競技の経験がないことをそれほど特別なことだと思ってなかったんです。それでも走るのは楽しかったし、楽しいという理由で続けててもいいかなって。でも、リオを経験したら、このままじゃ絶対にダメだってすっごく思うようになった。東京パラリンピックで結果を出したいんだったら、何かを変えないと」
男子大腿義足の山本篤が、リオの走り幅跳びで銀メダルを獲得した。
「篤さんって、本物のアスリートじゃないですか。自分は全然アスリートじゃない。誰から見てもちゃんとアスリートにならな、あかん。日本代表というのはそういう存在なんだ、と」
覚悟を決めた。楽しいだけの陸上競技と決別しよう。
「だから、リオは大きな節目になりました」

コーチとともに世界のてっぺんへ

写真:競技中の前川選手

前川は現在、井村(旧姓:池田)久美子氏にパーソナルコーチとして陸上競技の指導を受けている。帰国後、本格的に陸上競技の指導を受けたいと情報をかき集める中で出会った。
井村氏は一般の走り幅跳びの日本記録保持者で、現在夫の俊雄氏とともに三重県鈴鹿市でジュニア向けの陸上競技教室を主宰している。自宅から通えるところに、本格的に陸上競技を教えてくれる場がある。インターネットで検索してすぐに、連絡を入れた。
「子どもじゃないんですが、受け入れていただけますでしょうか」
見学に行き、子どもたちが夢中で走っている姿を見て、ますます「ここで上達したい!」と強く思ったという。
「もし、井村コーチに出会わなかったら、東京でもどこでも行こうって思ってました」
覚悟を決めてたどり着いた指導者に、今年4月から専門的に指導を受けるようになった。週6日、16時から1時間、みっちりと個人指導を受けた後、子どもたちの教室に混じって練習。木曜日には中高生向けのコアトレーニングにも参加している。

「これまで走り幅跳びの助走では、踏み切る足を思い切り前に出すようにしてジャンプしてたんです。でも、これだと体が斜めに入ってしまい、その結果後ろに反り返って助走のスピードを距離に活かせない。まっすぐに跳ぶこと。そんな基本的な練習から取り組み始めました」

助走のフォーム、リズムの習得。しっかり走る練習。それを繰り返すことで、走るエネルギーを前方向のジャンプに変換できるようになる。
「今から考えればリオの時には1本1本の助走がバラバラやった」
助走から踏み切りまで全力で駆け抜ける。そのためにスタートから6歩目にマーカーを置いてリズムを確認したら、あとは踏み切りまで一気に加速させる。
「リオ以降も、練習で2mしか跳べないなど、ジャンプにすごくばらつきがあったんです。でも、指導を受けるようになってからコンスタントに3m70前後を跳べるようになった。疲れが溜まって調子が悪いということもあるじゃないですか。そんな時にもいつも通りの跳躍ができるように、あえて疲労が溜まった状態でジャンプする練習をしたり、助走の前にダッシュして筋肉に刺激を入れるということも教えてもらいました」
落ち着いて跳躍に臨める状態を自分で作り出す術を得たことで、少しずつ安定したジャンプができるようになった。

写真:前川選手の跳躍

1本1本、練習のたびに井村コーチから問われる。「どんな意識で走ったのか、跳んだのか。何が良かったか、何が足りないか」と。
「毎回です。だから自分で考えるようになりました。もちろん、きちんと解説もしてくれる。自分で感じたこと、コーチから受けた指導を、その都度ノートに記録するようにもなりました」
地道な努力が、短期間でも実を結び始める。井村コーチの元に通って約1ヶ月。大分パラ陸上で、アジア記録となる自己ベストを更新したのだった。

子どもたちとの教室では、健常の小中学生と競い合う。休憩時間には「義足、見せて〜」「触ってみる?」と言い合って、障害のことが自然と話題になる。
「義足になって悲しい? と聞かれた時に、私はむしろ義足になって、私にしかできない陸上に出会えたから幸せだよって言うと、“へえ!”って納得してくれる。もし、事故などで足を切断しなくてはいけない友達がいたら、私みたいな人がいるから大丈夫だって伝えてねって。すごくいいコミュニケーションになってると思う」

7月にはイギリス・ロンドンでパラ陸上の世界選手権が開催される。
「メインは、きっぱり走り幅跳び。今度はしっかりメダルを狙います」。

4mは目前。
「でも、中身の濃い練習を積んでいるから、4m30は跳びたい」
その先、3年後には東京パラリンピックがある。
「東京で金メダルを獲得したいけど、そのためには5mを超えなくちゃダメだと思う」そう井村コーチに言ったら、「いけるよ!」と即答されたという。金メダルへの道のりは決して平坦ではない。でも、信頼するコーチの指導を一つひとつ噛みしめるようにして身につけていけば、きっと結果はついてくる。

「事故で切断してから、本当にいろんな人たちが支えてくれています。最初に義足で走ることを教えてくれたリハビリの先生も、競技に誘ってくれた瞳さんも。そして大事な家族も。井村コーチに出会って、また大きな支えが増えました」
義足になったことで感謝の気持ちを素直に持てるようになった。この想いとともに、前川は東京パラリンピックに向かって疾走していくのだ。

※競技中の写真はすべて、2017年6月10・11日に行われた「日本パラ陸上競技選手件大会」より


写真:前川選手の義足

「SEKAI NO OWARI(セカイノオワリ)」のライブで盛り上がりたい。高校1年の夏、その一心で義足をつけて2週間で歩けるようになったという。メンバーのサインが義足のソケットに書かれている。宝物と宝物のコラボだ。


写真:前川選手
高校生の時には編み込み、卒業後にブリーチして髪をブルーやピンクに染めていた時期もある。でも、今は自然な黒髪に。「井村コーチからはアスリートとしての振る舞いも教えてもらっています」。

 

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