第17回 国枝慎吾(車いすテニス)「見つめる先にあるもの」

車いすテニス 2018年3月18日
第17回 国枝慎吾(車いすテニス)「見つめる先にあるもの」

ピョンチャンパラリンピックが終わっていよいよ2020という今、国枝慎吾に言葉を聞いた。

2016年1月。一つのニュースが世界のスポーツファンに衝撃を与えた。車いすテニスのグランドスラム第1戦・全豪オープン、国枝慎吾は1回戦でイギリスのゴードン・リードと対戦し、3−6、6−7で敗退した。

年間グランドスラムを5回(2007, 2009, 2010, 2014, 2015)達成するなど、驚異的な勝ち星を積み上げてきた国枝の敗北。それが、大きなニュースとして世界を駆け巡ったのだった。

そこから2年。2018年1月、メルボルンの舞台に国枝の姿があった。1回戦の相手は、再びリード。リオデジャネイロパラリンピックの覇者を国枝は6−1、6−3で下して勝ち上がり、全豪オープン9度目の優勝を飾った。
「怪我から本格復帰して、去年さまざまな改造に取り組んできた。それがやっと結実し始めたと思っています」

王者が、ついに戻ってきた。

 

王者への軌跡

 

写真:2012年ロンドンパラリンピックにて

2012年ロンドンパラリンピックにて

国枝慎吾と聞けば、「ああ、あの車いすテニスの…」と、誰もがイメージできるだろう。錦織圭が世界的に有名なテニスプレーヤーであるのと同じように、国枝慎吾は存在する。
1984年、千葉県生まれの34歳。野球に夢中になっていた9歳の時に脊髄腫瘍が見つかり、車いす生活となった。母の勧めで車いすテニスを始めると頭角を表し、高校在学中から海外のツアーに参戦する。
麗澤大学3年時、2004年のアテネパラリンピックのダブルスで金メダルを獲得。2008年の北京パラリンピックではシングルスで金、ダブルス銅。2012年のロンドンパラリンピックのシングルスで2連覇を達成した。
北京パラリンピックでチャンピオンになった翌年の2009年からプロ活動を開始。この年から、一般のグランドスラムと同じ時期・会場で車いすテニスのグランドスラムが行われるようになった。

国枝の武器は、バックハンドのトップスピン。アテネパラリンピックで金メダルを獲得した後、北京パラリンピックシングルス優勝を目指す中で習得してきた。ラケットを持ちながら車いす操作する車いすテニスでは、バックハンドのトップスピンは無理だという定説が、かつてあった。それを、国枝がひっくり返した。
一つのテクニックをマスターするためには3万球以上を打ち込まなくてはいけない。北京パラリンピック1年前の完成を目指し1日のトレーニング球数を逆算して取り組んできた。素早く車いすで回り込み、パワフルなウイナー(いわゆるエース)を放つ。国枝のスタイルは、車いすテニスの常識を変革させてきたのだった。

一方で、国枝はテニスにつきものの故障に悩まされた。ロンドンパラリンピックを前に右ひじを手術。怪我を乗り越えてチャンピオンになったが、リオデジャネイロパラリンピックの前年から、再び右ひじが悲鳴をあげた。
ロンドンの年は2月に手術を受けたが、リオの年は4月になって決断。6月に行われたワールドチームカップでは、「治療に専念したから、痛みはない」と言い切り、シングルスで2位という成績を残して健在ぶりをアピールしていた。
しかし、9月のリオデジャネイロパラリンピックでは、シングルスは準決勝で敗退。ダブルスで銅メダルを獲得するにとどまったのだった。

 

写真:国枝

 

「正直、あのパラリンピックは無理をしたのかな」
ポソリと、国枝は振り返る。
「パラリンピックでなければ、出場していませんでした。ただ、出場したことは全く後悔していない。あの時のベストは尽くしましたし。もし出場しなかったら、きっと後悔していたと思う」

金メダリストの看板を、リオデジャネイロで下ろした。
「…気持ちが楽になった部分が大きいですね。あの舞台でしか得られないことはあった。帰国後、半年間は治療に専念しましたが、もう一度挑戦者として再スタートを切れたのも、リオの経験があったからこそ、なんですよ」

 

最先端テクニックによる革新

 

写真:2016年リオパラリンピック シングルス決勝戦 ゴードン・リード

016年リオパラリンピック シングルス決勝戦 ゴードン・リード

リオデジャネイロパラリンピックの決勝を戦ったのは、ともにイギリスの若手選手。全豪で国枝を倒したゴードン・リードが金メダルを獲得し、当時18歳だったアルフィー・ヒューイットが銀メダル。
「ロジャー・フェデラーは片手でバックハンドを打ちますが、非常に高い位置からショットを放ってくるのが特徴です。ゴードンとアルフィーのバックハンドも同じように高い位置から振り切ってくる。一般の高度なテニスのスタイルを、彼らは車いすテニスに持ち込んだんです」

国枝を見上げて育ってきた若手が、国枝を凌駕するテクニックで車いすテニスを押し上げている。
「彼らのスタイルを、去年は本当に研究しました。右肘の痛みを再発させないために、グリップ(持ち方)を変えた。その上で、イギリスの選手たちのスタイルをイメージして練習してきたんです」

今、イギリスのプレーは車いすテニスの主流となっている。
「以前から、そうやって新しいテクニックを車いすテニスに持ち込んだ選手がいました。フランスのマイケル・ジェレミアスは卓越した車いす操作で回り込んでフォアハンドを放った選手でしたし、今も世界ランキングのトップを争うステファン・ウデもパワーのあるサーブを車いすテニスで始めた。僕自身はバックハンドのトップスピン。世界最先端のテニスを、どう車いすテニスに落とし込んでいくのか。そういう大きな流れを、トップ選手が作り出していくんです」

世界を牽引するトップアスリートだけが実現しうる、革新。
「去年まではイギリス勢のテニスに、どう追いついていくかを必死に考えてプレーしていました。でも、今年全豪オープンで優勝したことで、追いかけるところからまた先を走る意識へと変わった」
新しい技術を真似るところから、自身のオリジナルへと昇華させていく。
「ライバル選手たちを相手に、技術の先回りをしなくては、決して追い抜いていくことはできませんから」

 

見据える車いすテニスの未来像

 

国枝慎吾という存在があって、日本でも、いや世界でも車いすテニスやパラリンピックが広く認知されてきた。
「確かに、アテネパラリンピック以降、スポーツとしての報道は増えた。しかし、2020東京オリンピック・パラリンピックを迎える東京にあってさえ、パラスポーツは期待していたほどの盛り上がりには達していないように思えます」
足りないものは何だと、国枝は考えているのか。

写真:国枝

 

「スポーツとしての価値」
日本に限って言えば、と前置きをして言葉を繋いだ。

「まだまだパラスポーツはエキサイティングなスポーツである、と捉えられていないという感覚です。僕ら選手は、やはりプレーで魅せるしかない。僕自身が、パラスポーツでとても興味をそそられるのは、車いすバスケットボールのパトリック・アンダーソン(※)です。パトリックのプレーは、見ていて純粋にかっこいいし車いすバスケの醍醐味を存分に味わえる。僕も、彼のような存在にならないといけないと思っています」

 

女子の上地結衣は、国枝の姿を、プレーを見て、世界の頂点を目指してきたという。そういう選手が、国枝の後に続いている。
「車いすテニスを一般のようにプロ化したい、と思ってやってきたので、彼女のような選手ができたのは本当に嬉しい」

ゼロからのスタートと、再びの王者への挑戦を始めた国枝が見つめている先にあるものは、何か。
「ロンドンパラリンピックで2連覇した頃から、車いすテニスで言えばグランドスラムが世界最高峰の舞台だと思って戦ってきました」
一般のテニスが盛り上がっているのは、年間4戦行われるグランドスラムがあるからだ。グランドスラムで活躍しているフェデラーや錦織圭だから、オリンピックに出場するなら絶対に見たい、とファンは考える。
「車いすテニスの選手たちは同じように、グランドスラムの価値を重視しています。注目されるスポーツとして確立するためには、そこは不可欠だと考えています」
その上での、パラリンピック。
「僕は、車いすテニスの選手として、車いすテニスがどう進化していくか、その未来像を探りたい」
世界中の人を魅了する選手として、車いすテニスというスポーツを牽引していくこと。国枝の視線は、その1点に焦点が当てられているのだ。

 

(※)カナダ男子代表選手として、シドニー、アテネ、ロンドンパラリンピックで金メダル、北京で銀メダル獲得に大きく貢献したスーパースター。一旦は代表を退いたが、東京パラリンピックを目指し復帰した。

写真:笑顔の国枝

国枝慎吾(くにえだ・しんご)
1984年、千葉県生まれ。ユニクロ所属。9歳の時に脊髄腫瘍で車いす生活となる。11歳の時車いすテニスを開始。高校在学中から海外ツアーを転戦し、2004年アテネパラリンピックに初出場しダブルスで金メダル。08年北京大会ではシングルスで金メダル、ダブルス銅メダル、12年ロンドン大会シングルスで金メダル、16年リオデジャネイロパラリンピックではダブルスで銅メダル。2018年2月現在、シングルス世界ランキング3位。

 

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スポーツライター 宮崎恵理

スポーツライター 宮崎恵理(みやざき・えり)

出版社勤務を経て、フリーのライターに。1998年の長野パラリンピックを機に障がい者スポーツの取材に携わり、「Tarzan」「スポーツグラフィックナンバー」など雑誌やインターネットメディアで執筆。12年ロンドンパラリンピック、14年ソチパラリンピックではNHK開会式中継解説を担当した。著書に『心眼で射止めた金メダル』『希望をくれた人』『みんなちがって、それでいい』。日本スポーツプレス協会理事、国際スポーツプレス協会会員。

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