土田和歌子(トライアスロン)「レジェンドの過去・現在・未来」

トライアスロン 2018年7月17日
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2016年2月 東京マラソンで9連覇を成し遂げた土田

土田和歌子というアスリートの活躍を、新聞やテレビで見たことがあるという人は多いだろう。

1998年、長野冬季パラリンピックのアイススレッジスピードレースに出場し、1000mと1500mで金メダル、100m、500mで銀メダルを獲得。長野パラリンピックでの日本人選手によるメダル量産の立役者として、若き土田はメディアを飾った。

1999年から陸上競技に転向。2000年シドニーから2016年リオデジャネイロまで、パラリンピックの陸上競技に5大会連続出場している。また、ベルリンやロンドンなど世界の名だたるマラソンでのタイトルを手にし、2016年には東京マラソンで9連覇を達成した。

2018年1月、土田和歌子はパラトライアスロンに転向した。
「競技を始めて25年。これまでもずっと挑戦を続けてきた。挑戦が、自分の可能性を広げてくれる。スポーツは、私の人生の原動力なんです」

 

■冬・夏パラリンピックの金メダリストに

写真:1998年 長野パラリンピック・アイススレッジスピードレース女子1500mで優勝、日の丸を手にウイニングランをする土田

1998年 長野パラリンピック・アイススレッジスピードレース女子1500mで優勝、
日の丸を手にウイニングランをする土田

1974年、東京都で生まれた。高校2年で交通事故に遭い、腰の骨を折る大怪我を負った。下半身まひのため日常的に車いすを使用している。
小学生の頃はミニバスケットボールに夢中になったが、中学ではスポーツから離れていたという。本格的に競技スポーツに取り組んだのは、車いす生活になってからのことだ。

交通事故後1年足らずの時期に、長野パラリンピック開催が決定。スレッジ(そり)に乗ってスピードスケート競技を行うアイススレッジスピードレースの講習会に参加した。
「パラリンピック出場を目指さないか、という言葉に刺激を受けて、挑戦してみようと練習を始めました」

1994年、リレハンメルパラリンピックに初出場。
「結果は、見事に惨敗です。もちろん、自分なりに一生懸命取り組みました。でも、全然準備不足で結果が伴わない。開会式なども全く楽しめないし、帰りたいと思った初パラリンピックでした」

4年後の長野で、土田はリベンジを果たす。
「気持ちの切り替えに時間はかかりました。でも、自国開催が大きく後押ししてくれた。長野に向けて栄養士やトレーナーがつくなど強化の体制が整ってきたんです。今から考えればまだまだ微々たるものでしたけれど、リレハンメルの時には何もない状態でしたから、集まった選手のモチベーションも高まって、日本チームが一つになれたんですね」
それが、日本のメダルラッシュに繋がったという。

しかし、長野大会以降、アイススレッジスピードレースは冬季パラリンピックの種目から外れてしまう。夏場のトレーニングとして陸上競技を取り入れていたことから、すぐに目標をシフトさせた。同年4月には、仙台で行われた車いすのフルマラソンに初めて出場。スピード強化のためにトラック種目にも着手し、シドニーパラリンピックを目指した。

夏季として初出場となった2000年のシドニー大会で、土田は800mで銀メダル、車いすマラソンで銅メダルを獲得。さらに、4年後のアテネ大会では5000mで金メダル、マラソンで銀メダル。土田は、冬と夏のパラリンピック金メダリストになった。

 

■トライアスロンへの挑戦

写真:2018年5月 ITU世界パラトライアスロンシリーズ(2018/横浜)にて(ラン)

2018年5月 ITU世界パラトライアスロンシリーズ(2018/横浜)にて(ラン)

 

2018年1月。土田は、20年近く活躍してきた陸上競技からパラトライアスロンへの転向を表明した。43歳での決意である。

パラトライアスロンは、スイム0.75km、バイク20km、ラン5kmのコースで競われるトライアスロンだ。2016年のリオデジャネイロパラリンピックから正式種目になった、新しい競技だ。
その車いすのクラス(PTWC1)に、土田は挑戦している。ランのパートでは競技用車いす(レーサー)の経験を存分に発揮できるが、新たにハンドサイクル(自転車)、オープンウォーターでのスイムをこなさなくてはいけない。

そもそも、トライアスロンを始めたきっかけは、2016年に喘息を発症したことによる。リオパラリンピックの後、水泳を始めた。「どうせ取り組むなら(複数競技にまたがる)陸上競技のクロストレーニングとして活用したい」その思いで、水泳とともにハンドサイクルのトレーニングもスタート。
「せっかく始めたのだから、2017年5月に横浜で行われるパラトライアスロンを目指してみようか、と思ったんです」

日本では、毎年5月に横浜でトライアスロンの国際大会が開催される。世界最高峰のトライアスロンシリーズの一戦で、トップクラスのアスリートによるエリート部門と、一般参加のエイジ部門がある。同時に、パラトライアスロンのエリート、エイジ部門も行われている。

当初、土田は横浜大会のエイジ部門へのエントリーを考えていたという。ところが、4月のアジア選手権で優勝。
「思いがけない結果でした。この優勝のおかげで、横浜大会のエリート部門への出場権が得られたんです」
土田は、ITU世界パラトライアスロンシリーズ(2018/横浜)のパラトライアスロンエリートでも優勝した。
「競技としての魅力に改めて触れたという感じでした。一方で、スイムやハンドサイクルはまだまだ未熟。極めるためにどれだけ厳しいトレーニングをしなくてはいけないか、ということを痛感した大会でもあったのです」

写真:2018年5月 ITU世界パラトライアスロンシリーズ(2018/横浜)バイク

2018年5月 ITU世界パラトライアスロンシリーズ(2018/横浜)バイク

この時点ではまだ、“クロストレーニングとしてのトライアスロン”という位置づけは変わっていない。継続した結果、どう陸上競技、マラソンに影響があるのか。それを確かめてみたいという気持ちが強かったという。
10月に行われる大分国際車いすマラソンで、その成果を確認しよう。そう思って陸上とトライアスロンの両方に取り組んでいたが、2017年の大分国際車いすマラソンは台風により中止。
「次の大会まで延期する、という選択肢もありました。でも、もうその時には、結局延期したとしてもトライアスロンをやることになる、と自覚していた(笑)。そのくらい、トライアスロンの魅力にとりつかれていたんですね」

2018年1月にパラトライアスロンに転向すると表明してから、トレーニング環境を一新した。現在、東京・多摩にあるパーソナルトレーニングジムを拠点にトレーニングを行う。ビルの1室にあるジムには、競技用車いす(レーサー)とハンドサイクルがおかれている。コーチの高橋慶樹氏がトライアスロンに必要な筋力トレーニングやコンディショニングを担当する。最も課題が多いというスイムは、プールトレーニングのほか湖や海などでのオープンウォータートレーニングについて、それぞれ専門のコーチに指導を受けている。

写真:2018年5月 ITU世界パラトライアスロンシリーズ(2018/横浜)スイム

2018年5月 ITU世界パラトライアスロンシリーズ(2018/横浜)スイム

脊髄を損傷している土田には、体温調整が難しいという機能障害もある。長時間水の中にいるとウェットスーツを着用していても体が冷えて動きが悪くなってしまう。
「トライアスロンを始めて、機能障害を痛感するようになりました。でも、トレーニングで克服できないものなのか、慣れることで水中の動きが改善できるものなのか。こればかりは、自分で自分の体、障害と向き合っていくしかありません」
自分を実験台にしながら、工夫を重ねていくだけだ。
「同じ脊髄損傷でも、人によって状態は異なります。だから、自分に聞くしかない。そこが難しくもあり、工夫しがいのあるところなんです」

2018年、世界パラトライアスロンシリーズ横浜大会で2連覇を果たした。スイムではトップと6分ものタイム差があったが、バイクとランではダントツのタイムで走り抜いた。1時間11分23秒でフィニッシュした時点での2位とのタイム差は3分30秒。
「最初のスイムのタイムをあげないと、自分の展開に持っていくことはできません。最後まで気が抜けず、厳しい戦いでした」

 

■パラスポーツの進化を見つめて

写真:2000年9月 シドニー“オリンピック”の舞台で行われた女子800mで見事銀メダル

2000年9月 シドニー“オリンピック”の舞台で行われた女子800mで見事銀メダル

リレハンメルパラリンピックから第一線を走り続けているレジェンドは、パラスポーツの進化をつぶさに目にしてきた。
「2000年のシドニーでは、初めて出場した夏のパラリンピックという以上に、オリンピックの舞台で戦ったことが強く印象に残っています」
車いすの男子1500mと、女子800mの決勝が、オリンピック期間中のメインスタジアムで公開競技として行われた。
「オリンピックの男子400mと女子200m決勝の間にレースが組み込まれていました。だから、スタジアムはそれこそ満場です」
大声援を受ける中、夢中で疾走し銀メダルを獲得した。オリンピックの舞台で走りメダルを獲得した最初の日本人選手として、世界中の陸上競技ファンの記憶に刻まれた。

公開競技以外のレースは、オリンピック終了後に開催されたパラリンピックで行われる。オリンピックと同じスタジアム。しかし、これが同じ場所かと思うくらい観客の数は激減していた。
「オリンピックとパラリンピックの違いを、身をもって感じた大会でもありました」

1998年に開催された長野パラリンピックによって、“パラリンピック”の名称が日本に定着した。
「そして、2013年に東京オリンピック・パラリンピック開催が決定して、ますます注目されるようになり、環境は大きく変わってきました」
選手を取り巻く強化体制が拡充してきたという実感があるが、急激な変化に戸惑うことも少なくない。
「2020までの突貫工事のように整えられたとしても、それだけでは足場がぐらついたままになってしまう恐れがあります。2020以降に、何を残していくのか。アスリートとしても、そこを追求していきたい」

レジェンドは、社会的な役割を担う部分が大きい。
「私の子どもが通っている小学校でも、障害がある人たちがどんな風に生活しているかなどを知る機会はとても少ないと感じています」
パラスポーツの魅力を広く知ってもらうことで、見えない垣根を低くしていけるはず。そう、土田は考えている。
「現在トレーニングを見てもらっている高橋コーチも、『最初に出会った頃は、パラスポーツのレベルはそれほど高くないのではないか』という先入観があったと言っていました。でも、実際に競技を見るようになって、それが覆ったと。自分の目で直接見る体験が、一番大事ですよね」

写真:2018年5月 ITU世界パラトライアスロンシリーズ(2018/横浜)フィニッシュ直前の笑顔

2018年5月 ITU世界パラトライアスロンシリーズ(2018/横浜)フィニッシュ直前の笑顔


世界パラトライアスロンシリーズ横浜大会では、一般のエリート部門に先駆けてパラトライアスロンのレースが行われる。山下公園から見渡せる海がスイムのコースであり、バイクやランは周回コースを何度も通る。
「横浜大会のコースなら、トライアスロンというスポーツの醍醐味を丸ごと感じながら応援できる。まあ、トライアスロンではまだまだ無我夢中で、応援の人たちを魅了するレースができるほど余裕はありませんけど(笑)」
どれだけパラスポーツを直接楽しめる機会を作っていけるか。活躍する姿で、どれだけ見ている人を魅了できるか。2020以降に続く道を、今から整えていきたいという。

2度目の自国開催のパラリンピックまで、あと2年。
「新しい競技で、自分をどう高めていけるのか。1日1日を積み重ねながら、挑戦を続けていきたいと思っています」

スポーツライター 宮崎恵理

スポーツライター 宮崎恵理(みやざき・えり)

出版社勤務を経て、フリーのライターに。1998年の長野パラリンピックを機に障害者スポーツの取材に携わり、雑誌「Tarzan」ほか「スポーツグラフィックナンバー」などで執筆。現在、「Tarzan」「それを最大限に活かせ! パラアスリートGO!」の連載を展開中。12年ロンドン・パラリンピック、14年ソチ・パラリンピックではNHK開会式中継解説を担当。著書に『心眼で射止めた金メダル』『希望をくれた人』。日本スポーツプレス協会理事、国際スポーツプレス協会会員。

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